僕の先生
「……」
俺は、ただ目を見開いていたのだ。
視界にこぼれる金髪の背後にある、星空を見ていた。
闇に銀の粉が散って、きらきらと輝いて、俺は今この瞬間、何のためにこの場所にいるのかと不思議になる。
俺はどうして、こんな星空の下にいるのだろう。
星空は、上縁が木の葉のかたちに切り取られていて、どうして俺は、こんな木の下にいるのかと思う。
そして……下縁が、人のかたちに切り取られていて。
影が。俺に重なる影。
感触が。
どうして俺は……この子……と……。
今……俺たちは……何を……?
そこまで考えた時。
ふっと、やわらかいものは、近付いてきた時と同じ静かさで、俺から離れた。
「……」
「えへへ
」
「……?」
俺は、この状況がうまく認識できない。
目の前、満面の笑みで、俺を見つめている少年。その顔を、星たちよりも嬉しそうに輝かせている少年。
「? ……???」
そして凝固して動かない俺の身体。
ただ視線だけを、俺はきょろきょろとうごめかせ、脇の草むらを見て、わずかに揺れる草先、吹き渡る風を見て、自分が押し付けられていた大木の幹、その葉を見て、薄闇の広がる空を見て。それから。
もう一度、少年に視線を戻す。
俺と目のあった彼は、ますます幸福そうに、にこっとした。
いまだ身体が固まったままの俺、その首根っこに、ぎゅうっと抱きついてくる。
「えへへ、やっちゃった
シンタロー先生っ! 今のが、僕のファーストキッスです
」
その言葉で、俺の思考にかかった霧が、晴れていく。
え。
ファーストキッス。
ふぁーすと。きす。きす……きすきすキスキス……。
キス……。
えっ、えええええええええッッッ!!!
「う……あ……っ……マ、マジッ……お前……ぐ……が……っ」
少年に抱きつかれたまま、俺は必死に口を動かそうとするが、壊れかけのロボットのように言葉にならない。
あまりのことに、言語中枢が破壊されてしまったのか、筋肉が崩壊してしまったのか、どちらだろうか。
そんな俺の様子を見て。
ちゃっかり俺の膝の上に乗った少年は、ん? という風に小首をかしげて、慌てて言った。
「あ、ああ! 勿論、ファーストっていっても! 恋人のキスは、ってことですよ
家族のキスはいつもしてますからね。言葉は正確に伝えなきゃ。先生って日本人だもんね! 異文化コミュニケーション
」
「ぐ……う……うぎっ」
「恋のキスは、先生が最初です 僕、シンタロー先生が初恋ですから! 恋人のキスは、愛している人としかしないんです! 先生、大好きでーす
」
「う、くぅ……マ……マジ……」
「ああ、早く先生が、僕の家族になってくれるといいなあ
」
「マ、マジッ……」
一方的に、立て板に水。
夢見るように、とろんとした青い瞳で、ほう……と溜息をついている少年の名を。
俺は、必死の思いで、呼ぼうとする。
拡散しそうな精神を寄せ集め、萎えた全身の力を総動員し、やっと俺は声を絞り出す。
「マジック!」
「はあい
何ですか、せんせーい
」
つん、とマジック少年は、俺の鼻先を人差し指でつついてくる。
可愛い声が、答えてくる。
「……マ、マジック……う……あの……あのなあ……」
「はあい、ちゃあんと聞いてますよ、先生
先生の言葉は、常に聞いてますよ」
「くっ……」
俺は、息を吸い込んだ。
そして思いっきり叫んだ。
「こらぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!!!」
「わっ」
常に聞いていると言った癖に、耳を塞いでいるマジックである。本当に現金な奴。
少年は肩を竦めると、図々しく俺の膝の上にまたがったまま、やれやれという風に言った。
「先生、至近距離で突然叫ぶのやめてください。耳がキーンとしちゃいました。キーンって。今はまだいいですけど、いずれ睦言の時とかは気をつけてくださーい」
「むっ! 睦言って! お前いくつだ! というか! というかお前! こんなこと! こんなことっ――――ッ!!!」
「『こんなこと』って。どんなことですか?」
「えっ!」
俺は口ごもる。
彼は繰り返す。その白い顔。
「先生、『こんなこと』って、どんなこと?」
「ど……どんなことって、お前……」
ちくしょう。俺はからかわれているのか。
子供に『こんなこと』をされちまって。
「『こんなこと』って……こんなこと、でしょ」
「ああん?」
問い返した俺は、馬鹿だった。問い返すよりも、もっと、さらなる危機の可能性を考えておくべきだった。
「先生……目を瞑って……」
「……ッ!!!」
また、静かに近付いてくる影。
ぼんやりと俺は、ああ、綺麗な顔だな、と思った。少年の閉じた瞼を彩る睫毛は、黄金の色だった。
星明りに照らされて……どんどんと……俺に迫って……。
二度目、のそれも。
俺は、避けることが、できなかった。
しかも俺は、今度は目を瞑ってしまったのだ。
魔法にかかったように、少年に言われた通りに。体が、勝手に。
目を開けているよりも、目を閉じている方が、ショックが少ないと脳が判断したのか、自己防衛本能が働いたのか。
でも、やはりそんな俺の脳も本能も、輪をかけて馬鹿だったのである。
目を閉じ、視覚を遮断した時の方が。
――触覚が、鋭敏になる。
生々しく伝わってくる。
「……う……」
少年のやわらかい唇のかたち、だとか。
息遣いだとか。
俺の顎にそえられた、細い指の冷たさだとか。
俺の目元にかかる金髪の先、まだ大人になりきらない少年の首筋から漂う、甘い香り――そして。
「! ん……っ!」
舌が、入ってきたのだ。
少年は、舌先もやわらかかった。湿っていると最初に感じた。
しかし、すぐにそれはどちらの湿り気なのかがわからなくなる。
ぴちゃり、と濡れた音が聞こえて、俺はぎゅっと目を瞑った。
どうしよう、と思った。
どうしよう。どうしよう。
俺は、頼りなく地に投げ出された自分の右腕に、ありったけの力を篭めた。
だが、動かない。
脳と筋肉をつなぐ命令回路が、麻痺してしまって、動けない。
動けないのを、動かそうとする。
手が震え、ぴくぴくと肌が揺れる。少しずつ少しずつ、浮き上がる俺の腕。
「……ッ……ふ……」
その瞬間。
逆に、俺の顎にかけられた少年の指に、ぐっと力が篭り、口付けが深くなった。
俺の背中が、意外なほどに強い力で、大木に押し付けられる。
ぱたり、と半ばまで持ち上げた俺の手が、再び地に落ちる。
心の中で、俺は叫んだ。
『俺ッ! 俺、どーしちまったんだ、俺ッッ!!!』
「僕……」
差し込まれる舌と一緒に、ささやかれる言葉に。
「……シンタロー先生が、好きなんです……」
俺は、背筋がぞくりとして、頭の芯が生ぬるい熱に溶かされていくような、切迫感と倦怠感に襲われる。
細い指に触れられている顔の輪郭が、ひんやりとして、何度も撫でられるたびに、感覚が研がれていく。
その感覚は、口元へと集中していくのだった。触れ合っている場所へ。相手が潜り込んでくる。
薄い小さな舌が絡んでくるのを、俺は止めることができない。
相手はほんの少年なのに。
しかも生徒。俺の……生徒なのに。
そう思うのに、俺の心臓はどくどくと激しく波打ち、深く深く入り込もうとする舌に、無力に眉根を寄せることしかできないのだ。
「……はっ……」
マジックが斜めに身体をずらしたので、俺は唇の端から、苦しい息を吐く。
すると、また塞がれた。呼吸なんかするなという風に、強引に塞がれた。
濡れた唇。混じり合う唾液、染まる頬。
驚くほど巧みに歯列をなぞり、まごつくばかりの俺の舌を吸ってくる少年に、俺は蹂躙されるばかりで。
どれほどの時間が経ったのか。
離れる際には、髪ごと甘く口付けられて、その場所から胸の詰まるような感情が込み上げてきて、俺は寂しいような気分になった。
「……う……」
俺は、ゆっくりと瞼を上げる。
きつく瞑りすぎていたせいで、ぼやけた視界の中に、少年の姿があった。
今度は彼も、さすがに疲れたのか、俺の膝の上に乗ったままで、息をついている。
「ふぅ……」
だが、すぐに俺が目を開けたことに気付いて、例のごとくに嬉しそうに微笑んだ。
そして言った。
「これはセカンドキッスです」
ちょっと少年の語尾は掠れていて、そのことに自分でも驚いたのか、急に照れくさそうな表情をして。
こちらは情けなくも、ぐったりして、大木に凭れかかったままの俺に、頬を寄せてくる。
こめかみに、また彼の唇の感触を覚えた。
「三番目も、四番目も、五番目も、百番目だって千番目だって万番目だって、僕のキスは、先生のものですよ」
「……」
「全部、先生のものなんだから。全部、先生にあげます」
「……マジッ……ク……」
「だって、」
今度は少年は、こつんと額を合わせてきた。ひどく近い距離に、青い瞳がある。睫毛が触れ合うか合わないかの間隔。
小さく囁いてくる、声。
「明日は、先生の誕生日ですよね」
「な……何だって……?」
驚いた俺の喉から、思わず言葉が滑り落ちる。
相手は、『あれ?』といった風に瞬きを一つして、もう一度言う。
「明日は、5月24日ですよね。先生、ちょっと早いですけど……お誕生日おめでとうございます」
俺は、全く自分の誕生日を失念していたのだった。
この年になれば、誕生日なんかより、目の前の新しい仕事の方が大切だったから、そんな暇なんかなかったから、忘れているのも仕方ないとは思うのだけれど。
第一俺は、自分の誕生日を祝うなんて、そんな柄じゃない。
でも。
でも……
どうして、俺すら忘れていた誕生日を、この子が知っているのだろう?
俺が、もどかしい意識をかき集めて、何とか言葉にしてそう聞くと。
マジックは、何でもないことのように、こう答えた。
「ああ。先生が最初に提出した履歴書を見たんです」
「!!!!!」
ど、どーして生徒がそんなものをっ! 教師の履歴書なんか、手に入れてんだッ!
守秘義務! 守秘義務どーなってンだぁッ!!!
俺のこの苦情には、彼はこの通り。
「え? いや僕は内部の人間だし。おかしなコト言うなあ、先生って。そもそも先生と僕の間には、守るべき秘密なんて、ないんですよ
」
「あんだってェ――ッ!!!」
俺は、つい力を入れて、やたら細かく書き込んでしまった履歴書のすべてが、この子供に知られているのかと思うと、ふうっと気が遠くなった。
恥かしい。
好きなモノ:カレーライス、はいいとして。苦手なモノ:ナマモノ、も絶対に知られている。カッコイイ教師な俺の弱点が!
ああ、いつか俺の机の引き出しに、カタツムリとか入ってたらどうしよう。いたずらっ子たちが、生臭いモノを背中に入れてきたら、どうしよう。
確実に俺は、『ギャー!』と悲鳴をあげてしまう。なんてこった。
これまで頑張ってきたイメージ台無しじゃねえかよッ!
そしたら、絶対こいつのせいだ。こいつのせい。
思い悩む俺の前で、マジックは不思議そうに主張している。
「どうしてですか? 知りたいって思うのは、人情じゃないですか! 特に誕生日。愛する人の生まれた日を祝わずして、僕は生きていくことができません!」
嫌な人情論を持ち出している少年を、俺は、キッと見据えた。
なんてヤツ! なんてヤツだっ!
とんだ危険人物……危険少年じゃねえかよッ!
「じゃーん! そんな、ワ・ケ・で!」
「何がそんな訳だ。まずは俺の膝から降りろ」
「シンタロー先生には、僕を、プレゼントしまーす!」
「こらぁ〜〜〜〜〜ッ! どーしてそーなるんだっ!」
抱きついてくるマジックを、引き剥がそうとする俺。
しかし、ますますしがみついてくる少年は、離れない。
「どうしてですか? 僕、掃除だってできるし、料理洗濯、なんでもできますよ! 家事は得意ですし、ほら、たとえば先生に刃向かうような不届き者には、さくっと制裁加えてきますよ! そんな輩は逆に僕の忠実な犬に仕立て上げて、思いのままに操ってみせますよ!」
「あんだよその後半の危険思想! そんなのしていらねえ――!」
「キスだって! あっ、ねえ先生! 僕、上手だったでしょ? いっぱい調べて、ちゃあんと勉強しました
褒めてくださーい
」
「なにィィィッッッ!!!」
だからか! だから、妙に上手かったのかッ!
納得すると同時に、俺は髪を逆立てた。
教育的指導、発動。
「そんな勉強すんじゃねえ! お前は学校の勉強だけしてりゃいいんだよ!」
「学校の勉強はしっかりしてますよー。先生、知ってるでしょ? いいじゃないですか。人間、幅が必要なんです。父だって言ってました! 机の上の勉強以外にも、色んな知識を、子供時代からいっぱい吸収して……」
「ンな知識はいら――んッ!!!」
「わ、また大声」
身を竦めた少年は、不服そうに腕組みをした。もっともらしく斜に構えている。
「えー、先生、ウットリしてたじゃないですか。僕、ちゃんと見てました」
ぐわっと俺は噛みつきそうになるのを、グッとこらえる。
くっ……こんの小悪魔がぁッッ!!!
「してねえ! ウットリなんてしてねえっ!」
「そうかなあ。でも、ウットリしてなくっても、ときめいてたでしょ? せ・ん・せ・い
」
「ときめいてもねえ――っ! こんのガキんちょがっ! 十年早いんだよッ!」
「いやでも、僕、待ってられないですし。思い立ったら、すぐ欲しいのが僕ですし。それが僕の個性です」
「お前の都合なんか知ったこっちゃねえよ!」
「先生、恋愛は相手のことを思いやってこそ、恋愛なんですよ。相手の個性は尊重して」
「ならお前が俺の都合考えやがれ――――ッ!!!」
ぜいぜい、はあはあ。
マズい。相手のペースに乗せられてしまっている。
恋愛って。別に、マジックと俺の関係は、恋愛なんかじゃないから。別に。
ああもう、どうすればいいのだろう。
力なく俺が、相手を見返すと、彼はそれはそれは幸せそうに笑った。
とにかく、俺と目があえば、それが嬉しいらしいのだ。
……やっぱり……ガキが。
お子様め。
「……チッ……」
俺は、舌打ちをする。
絶対に甘く見られている。ナメられている気がする。
大人の威厳は。教師の威厳は、どこに。
「つっ、つーか、まだまだだろ! 修行が足りねえ!」
俺は口をぱくぱくさせながらも、何とかそう言い切った。
「えっ、そうなんですか」
これにはマジックは、ちょっと面食らったようである。目を瞬いている。
こーの自信過剰のお坊ちゃんめ。そう、俺はほんのちょっとだけ痛快な気分になった。
しかし。
「わかりました! 僕、頑張ってもっと勉強しますね! 見ていてください!」
「げ! ちがーう! そんなんちがーうっ! やめれ! 勉強せんでいい!」
真剣な目つきで、ぐっと拳を握り締めた少年に、俺は慌ててしまう。
これ以上勉強って。見ていてくださいって。
ンなの、見せられてたまるか――っ!!!
「とにかく! まずは俺の膝から降りろ! 降りろったら降りろ!」
「ヤで〜す
ここ、すっごく座り心地がいいんです! まるで僕のためにあつらえたような
ありがとう、先生!」
「あつらえてねえ! ありがとうじゃねええ!」
何だかまだ体が本調子じゃない俺が、膝をゆすっても。
ちゃっかりとまたがったままの少年は、降りるもんかとますます抱きついてくる。
そして、またささやいてくる。
今度は何だか上目遣い。神妙である。
「……シンタロー先生、僕のこと、全部もらってください……」
ちょっとドキリとしたが、そのペースに乗せられないように、俺はあえて声を張り上げる。
周囲の草が、さわりと揺れた。
「だっから! そんなんなあ、もらえねえ! もらえねえの!」
「えー、でももうあげちゃったから! 返品はきかないですよっ」
「クーリングオフもねえ悪徳商売かぁあ! 消費者センター!」
「だってね、」
マジックは、少しまだ濡れた唇に、人差し指をあてた。声をひそめる。
そして、形のいい顎を動かして、今度ははるか上を見た。
「この、エルムの木の下で、僕は誓っちゃいましたからね」
「ああん?」
「僕たち一族に受け継がれた、この伝統ある木の下で……だから、ちゃんともらってくれないと、危ないですよ」
「は? 危ない? この木がどーしたんだよ。さっきの、ちょっといい話だけじゃねえのかよ」
聞き返した俺に、おごそかな声が響く。
「困ったことに、この木の下で一族がした誓いを破ると、御本尊様の呪いが先生の身に降りかかります」
「うお――ッ!!! 脅迫ッ!!! 呪われたッ! 誰かぁ! お祓いして――ッ!!!」
「やだなあ、脅迫だなんて
第一、このエルムの花言葉は『信頼』です」
「ちっとも信頼じゃねええ! 親子話が台無しッ!」
「ささ、これから信頼し合って、僕たち、愛を育てていきましょうね」
「育つかぁ――ッ!」
俺は、頭を抱えたのだった。
夜の鳥が、鳴いた。
「シンタロー先生、大好きでーす
」
きゅーうと抱きついてくる金髪の少年。
またぐったりと、木に倒れ掛かる俺。
俺の未来に、朝は来るのだろうか。
★★★
「はーい。というワケで!」
僕は、話が終わった合図に、ぱん、と一つ手を叩いた。
そして宣言した。
「おにーちゃんは、シンタロー先生と、ファーストキッスを済ませたのです!」
ぱちぱちぱち! と返ってくる、小さな四つの手の平の拍手。双子の拍手だ。
ベッドの中、毛布から顔を出して、僕におめでとうを伝えてくれる二人に、僕は丁寧にお辞儀をした。
「やあやあ、ありがとう! お前たち、ありがとう!」
毎晩寝る前に、僕は双子に絵本を読んでやる。
でも、今日は色々なことがあったから。ありすぎたから。
特別に、絵本のかわりに、僕とシンタロー先生の恋の顛末を、報告していたという訳だ。
当然の家族の義務だと思ったし、それに双子は、なんたって、協力してくれたからね。
足をぱたつかせながら、ハーレムが騒いでいる。
「キス! キース! ボクもするー! こいびと! キッス〜!」
それを横目で見ているサービスの頭を撫でて、僕は言う。
「ハーレムにはまだそういうキスは早いよ! それにね、お前、まだサービスに仲直りのキスだってしてないだろう。朝方のケンカの分をさ。お兄ちゃんはごまかされないよっ」
「む!」
「はい、さっさとする! 今朝はハーレムが悪かったんだから。ごめんなさいって、サービスのほっぺにチューしなさい」
「むむー!」
ハーレムは、毛布を引っ張って、盛大にいやいやをしている。量の多い金髪が、ふさふさ揺れているのだ。どうも抵抗があるみたいで。僕とは平気なくせに。ほんと、困った子なんだから。
サービスはサービスで、そんな双子の兄に、やけに無表情な視線を送っている。
やれやれ。サービスだって、もっと優しくしてやれば、ハーレムだってやりやすいだろうに。
この子たちは、本当は仲がいいのに、仲の悪い素振りをしたがる点で、どうにも扱いが難しかった。
まあ……それはいつものことだったのだけれど。
今夜の僕には、もっと心を埋め尽くしてしまう想いが、ある訳で。
なんだかね。そんな日常の喧騒に身を置きたくない気分なんだよね。
ああ、ああ。ああったら、ああ。
バチバチと火花を散らしている双子から視線を逸らし、僕はうっとりと呟いた。
「あ〜、シンタロー先生の唇、やわらかかったな〜
ああ、いいかい、お前たち、お前たち同士はともかく、今日の僕からのお休みのキスは、なしにしといてね。しばらくファーストキッスの余韻に浸っていたいのさ」
でも、そんな僕たちの背後で、ルーザーったら。
部屋の隅に立って、腕組みなんかして、じろりと僕の方を見て、やけに皮肉っぽく言うんだ。
「……兄さん。あの教師に、兄さんが僕らに事細かに洗いざらい、ぶっちゃけてること、告げ口していいですか」
と、こうだ。
「なんだい、僕がまるで悪いことしてるみたいに。家族は一心同体じゃないか」
ルーザーの奴も、早く先生に慣れてくれればいいのにと、僕は思う。
このすぐ下の弟が、実は一番の人見知りなのだ。
というより、一族以外の人間には、基本的にこの態度。
ちょっとよろしくないなあ。
そうこうする内に、双子がケンカを始めてしまった。
どっちからキスするの、そっちからキスするの、どうこう。
キスはキスなのに。どっちからしたって、それは勝ち負けじゃなくって、キスはキスなんだよ。
それがわからないかな。この子たちったら。
「こらぁ――っって、あーあ……」
僕は、反射的に声をあげてみたものの。
なんだか、やっぱりいつもみたいに、すぐに仲裁をする気にもなれなくて。
足元がフワフワしてしまうのだ。何かが変だ、僕は。
ちょっと待ってね、悪いね、お前たち。
「ふーう」
僕は立ち上がって、部屋の窓を開ける。
初夏の夜風が、すうと僕の頬を撫でて、新鮮な空気が流れていった。
夜。外は夜。
黒い窓枠に頬杖をついて、夜空を見上げた。
輝く空。銀の砂は、幸せのしるし。
あのエルムの木の下で見た星たちは、同じように僕に微笑みかけてきたのだった。
――シンタロー先生。
僕は、大好きな人に向かって、語りかける。
ねえ、先生。聞こえてますか?
先生も、この星を見てますか。
さっき、キスしましたよね。
僕は今日のことは、一生忘れませんから。思い出にして大事にします。
だけどね、先生。
これからも、思い出、僕と作りましょうね。いっぱいいっぱい作りましょうね。若い僕らに、時間はたくさんあるんです。
先生と、もっとお話したいです。
先生のこと、もっともっと知りたいです。
もっともっともっと、キスしたいです。
僕、何でもしますから。努力しちゃいます。
そりゃ子供ですけど、こう見えても甲斐性あるんですよ。何処へ行っても、エスコートしてあげますよ。
顔だって、悪くないでしょ。きっと背だって、高くなります。将来性だって抜群ですし。何不自由ない生活、させてあげますよ。
先生が望むなら、この世のすべての人間を、跪かせてみせたっていい。
でも……もし先生が、子供の僕じゃダメっていうなら。
僕、早く大きくなりますから。先生の好み通りに、たくましくなってみせますから。
だから、ね?
先生。シンタロー先生。
待っててね。
夜空を見つめるだけで、僕は、とっても幸せな気分になったんだ。
恋って、凄いと思う。
だってさ、あの人の顔を、声を……感触を。思い浮かべるだけでさ。
何だってできるんだって気がしてくるんだよ。
何だろう、このパワー。どうしたんだろう、僕。
背後から聞こえてくるのは、相変わらずケンカばかりの双子の声。
我関せずの態度をとりながらも、この場にいてくれるルーザーの気配。
そして心には、あの人が。
「……ああ」
幸せだった。
指を伸ばして、つうっと自分の唇を、なぞってみた。
あなたも、こうして僕を思い出してくれていたらいいのに。
思い出して、幸せになってくれたらいいのに。
そうして、また夜空を見上げて、僕は呟いたんだ。
「僕の先生……」
★★★
「……ッ」
俺は、開いていた新聞紙を、くしゃりと潰してしまう。
これでもう数度目だった。慌てて、指で押し広げて、平らに戻す。皺が残ってしまった。
新聞は、まだ読んではいないのに。教師たるもの、一通り目を通すべきなのに、まだちっとも。
この部屋に帰ってきてからというもの、俺は新聞を開いてこそいたのだが、字面を目で追っていただけだった。
文字は目に入っても、その意味を捉えることができない。
テレビも同じだった。
習慣で、どかりと床に腰を降ろした瞬間に、リモコンでスイッチを入れたものの。
流れる映像を、どうも認識することができない。賑やかな笑い声や、歌声なんかが四角い箱から聞こえてくるのに、俺の意識はうつろだった。
心が、他に気をとられてしまっている。
俺は、あの四兄弟の家では飲み損ねた缶ビールを片手に、窓の外に目を遣った。
灰色の電信柱が、にゅうと突き出していて、雑然とした下町の風景が広がっている。俺の家。
週末の夜だったから、なんやかんやと人通りはあった。安アパートの二階にも、喧騒が風に乗って、遠くに近くに聞こえてくる。
狭い空に、小さく星空も見えた。
街の灯りに、白く霞んでいるけれども、それは確かにあの空だった。
――空。
「……チッ」
缶ビールの縁を舐め、俺は行儀悪く、空き缶を壁に向かって投げ出した。
からんころんとそれは転がり、数回跳ねて、逆立ちして止まった。
俺は、溜息をつく。もっと買ってくるんだった。
また外に出ようかとも思ったが、そんな気にもなれない。
「……」
テレビを消して、新聞紙を畳み、電器を消して、部屋隅にある粗末なベッドに、ごろりと身を横たえる。
しばらく、そうしていた。
「……っ」
俺は、びくりと身を震わせる。
知らぬ間に、指が唇を、なぞっていたのだ。
さっきから自分は、こうなのだ。
ああ、もう。悔しくて、悔しくて。なんだか情けなくって。
俺は、側にあった枕を、ぎゅうと握る。中に入っているビーズが、潰れそうなくらいに握る。
それから。
「……はあ」
また溜息をつき、力を抜いて、俺は仰向けになって天井を眺めた。
……俺。
……俺って……。
「ああ――っ! くっそー!」
両手を上げて、ばたんと勢いよく落とした。ベッドのスプリングが、ぎいと悲鳴をあげる。
……なんであんな、子供に。
やがて静かな夜が更けていく。
そのまま俺は、眠ってしまったのだった。
今日起きたことが、夢であることを願いながら、また夢を見る。
可愛らしい声だった。
現実でも夢でも……俺を慕ってくる声。
きっといつか、懐かしく想うことになる声。
俺は、そんな予感を……。
……本当は、ずっと……。
『ねえ、先生。聞こえてますか?』
――聞こえねえよ。
『先生も、この星を見てますか』
――バーカ、寝ちまったから、見てねえよ。
『さっき、キスしましたよね』
――知るか。
『これからも、思い出、僕と作りましょうね』
――勝手にしやがれ。
『あなたも、こうして僕を思い出してくれていたらいいのに』
――……。
待っててね、と。遠い声が、響く。
どうして、僕たちは出会ったのかな。まるで運命の二人みたいに。
『僕の先生……』
終