真夜中の恋人
「きゃあああああああ
マジック先生ーっっ
」
「ヒイイイ! なんじゃこりゃあ〜〜〜ッッッ!!!」
ずるずるずる、とシンタローを最前列に引きずり込んだ山南は、声の限りに黄色い声を送っている。
すでに全員総立ちだった。美しい夜の城は、熱き男たちの肉体で、埋め尽くされていた。
野外席、日本庭園から差し込む白い月の光も、震えていた。降るような星空は、本当に衝撃で降ってきそうだった。
野太い歓声と、地を這うハミングと、火山噴火の前触れのような地球の躍動、分厚い拍手。舞う花吹雪。
溢れるピンクの波、揺れるマジック笑顔うちわ、飛び交う黄色……いや、黄褐色どどめ色の声。
マッチョな兄貴たちが入り乱れて、ガツンガツンと筋肉をぶつけあい、汗を弾き飛ばしながら、踊り狂っていた。
その狭間。
「……」
熱い波に揉まれながら、シンタローの意識が一瞬、しんとする。
肌がざわめいている。
正面。舞台の上。七色のスポットライトが交差する一点。
そこに立つ人の存在を、感じる……。
「……くっ……!」
咄嗟に、まだ持っていたA3パンフレット(金を払ったので捨てられない)と、うちわで、顔を隠すシンタローである。
そして自分のハッピの袖を掴む山南を振り払い、男波を掻き分けて、出口に戻ろうとする。
しかし、男たちの怒涛の肉厚……いや肉圧は、シンタローを無力な木切れのように、前へ前へと押し流していくのであった。
すでに息をするだけで苦しい。慣れないシンタローは、あっぷあっぷの状態だ。山南が嬉しげに言う。
「何をもがいてるんだね、君ィ! 男潮の流れには逆らえないよ! さあ、こっちこっち!」
「ぐわあああ! イヤな潮ッ! 熱くてしょっぱっ!!!」
「……」
狂乱の海の中で。もみくちゃにされながらもシンタローは、音響装置を通したあの声を聞いていた。
山南に悪態をついていても、顔をことさらにしかめていても、ぴくぴくと肌が意識してしまっている。
全身の神経が、その存在の立つ場所に、集中してしまっている。
無理矢理に押し流された、最前列。
すぐ側にある壇上。
恐る恐るシンタローが、顔を隠していたパンフレットを少しずらすと、見覚えのある広い肩が見えた。
引退してからは少し長めにしてみたと言っていた、金髪が見えた。
声が聞こえた。
その男は、高い位置で、何事かを喋っていた。
喧騒の中でも、どうしてかその声はよく通り、シンタローの耳を捉えて離さないのだった。
どうしてなんだろう。そう、シンタローは思った。
その場所にいるのは、自分のよく知っている男のはずなのに。
なんだか、遠い人のようだった。
「あっあっ、君ィ! 今、マジック先生が私の方を見たよっ! 私を見てるよッッ!」
またぐいぐいと、山南にハッピの袖を引っ張られて、我に返ったシンタローは、再び慌てて自分の顔を隠した。
そして憮然とした表情を、パンフレットの陰から山南に向ける。
「……気のせいだろ」
意外と最前列は盲点なのかもしれないと思う。シンタロー自身もガンマ団員に訓示などを行うから、そんな勝手はわかっている。
特にこんな風にライトで照らされると、壇上からは、前列はよく見えないものなのだ。
シンタローは、だから、マジックは自分には気付いていないのではないかと思う。
こんな多くの人間の中で、自分なんかに気付く訳ないと、思う。
それぐらいに……高所にいる男は、遠い存在に思えた。
――なぜか、昔を思い出した。
コタローのことでマジックと決裂し、毎日毎日が悲しかった、あの頃の自分を。
ひどく冷たくされたり、逆に急に優しくされたりした。
あの頃の自分は、一人の軍人として、マジックの手駒として、集団の中からこんな風に、総帥である男を見つめていたのだ。
辛い、寂しい気持ちで。唇を噛み締めながら。
その時も、同じように、彼がとても遠い人に思えたのだった。
「……」
そんなシンタローの側で、相変わらずの山南である。
「あっあっあっ!!! 君、君ィ! 今、マジック先生と視線が合っちゃったよっ
マジカルマージック
」
「……気のせいっつってんだろ!」
「マジカルマージック
あっあっあっあっ! 先――せーいっ! ホラホラ、私に向けて、にこやかに手を振ってくださってるう!」
「だ――――ッ! だーかーら! こーいうのは、みんなにそういう風に見えるモンなんだよ! いちいち騒ぐな、このはっちゃけポニーテール!」
「あれあれ、ふっふー、私の声の方が、マジック先生に届いてるからって、イライラしちゃって。なにね、イヤ仕方のないコトだよ! なんたって私は会員番号No.3! マジック先生は、こぉんな大観衆の中でも、私の声は、特別に聞き分けて下さっているのだろうね……フフフ
」
ムカッ。
シンタローの胸が、嫌な感じに音を立てた。
山南が嬉しげに叫んでいる。
「マジカルマージック
」
「く……う……」
その隣で、シンタローは。
全身を奮わせながら、愛用の漬物石のように重い口を、じわじわと開く。
そして不吉な言葉を、唇に乗せる。
「……マ……マジ……」
しかしその声は、男たちの野太い歓声や阿鼻叫喚の中で、惨めに掻き消されてしまう。
「んん? 何て言ったのかね、君? 聞こえないよ?」
隣で、山南が。
自分をバカにした顔をしたように、見えた。
ムカムカッ。
シンタローは、全身の精神力を動員して、再度口を開く。
「……マ、マジカル……マジ……」
「もっと声を大きくゥ! そんなんじゃ、マジック先生に届かないよ君ッ!」
「ぐ……ううっ! 言われんでもわかっとるわいっ! マ、マジカ……ル……」
「ふっふー。なんだね君。さっき感心して損したよ! まだまだだねぇ〜」
「ぐ、ううううう〜〜〜〜〜!!!」
シンタローは、大きく息を吸い込んだ。
そして、搾り出すように叫んだ。
「マッ! マジカルマージックゥ〜〜〜!!!」
それでも、チチチ、と山南は人差し指を立てて、首を振っている。先輩が後輩を諭す仕草である。
「ダメダメ! 君ィ、語尾にハートマークつけてないよっ! こうだよこう! マジカルマージック
」
「げっ、ハ、ハートマーク!」
「そう! 当たり前じゃないか! 語尾でマジック先生への愛を表現するのだよ! ラブの気持ちを込めて
さあマジカルマージック
」
「……」
「マジカルマージック
」
「……」
「マジカルマージック
そうか、できないかあ、君には無理だったか……」
「……ッ!」
その瞬間。
シンタローの体内にあるマジカル・ゲージの針が。
振り切れ、た。
そして。
――プチン。
何かが。シンタローの精神にとって、とても大事なものが。切れた。
「う、うわあああああ――――ッッッ! うおおおおおお――――――ッッッッ!!!」
「マジカルマージックゥゥ――――――ッッッッッ
」
「そうそう やればできるじゃないかねっ! よおし、私も負けないよっ! マジカルマージック
」
「マージカル! マージックウウウ――――――ッッッッッ
」
「マジカルマージック
」
「マジカール! マージックウウウ――――――ッッッッッ
」
「よおし、私はハート三つでラブを表現しちゃうよっ! マジカルマージック

」
「くうう! マジカルマージック――――――ッ

」
「マジカルマージック


」
「マジカルマージック――――――ッ



」
「むう、やるね君! マジカルマージック




」
「マジカルマージック――――――ッ





」
「さすが我がライバルだけあるよ! なんの! マジカルマージック






」
「マジカルマージック――――――ッ







」
愛はハートに込めるっきゃない。ハートを磨くっきゃない。
男たちのハートまみれの熱き競争は、いつしか男波の熱きうねりの中へと、溶け込んでいくのであった。
一段と拍手の地鳴りが大きくなって、すべてを包み込んだ。
山南との歓声競争に夢中になっていたシンタローは、ハッと状況に気が付いた。
相変わらず、顔だけはA3パンフレットで隠していたから、正面の様子をはっきりと把握できていた訳ではなかったから、壇上のマジックが、退場したことに気付くのが、遅れた。
華やかな壇上の中に、激動のうねりの中に、すでにマジックの姿はない。
自分は、マジックを捕まえにきたはずなのに。
これはフィナーレだと山南は言っていた。とすれば、これで終わりということだから。
終わりって。終わり?
よく聞けば、会場のいまだ鳴り止まない拍手も、去った人を惜しむ拍手だった。
先刻までの躍動感溢れるリズムとは異なり、どこか哀愁を帯びていた。シンタローの耳は、切ないことに、それを聞き分ける程に、この状況に慣れてしまっていた。
「……ッ!」
「ほふう〜、癒された。ああ素晴らしかったね、マジック先生の講演は……いやあ良かった! また明日から頑張ろうという気になるよ! これぞダンディズムの粋……!」
隣で山南が、感慨深げに呟いている。
しかしシンタローは、もうその呟きを聞いてはいなかった。
「いやあ、しかしあのラブ&エロスについての後半のくだりをどう思う? 実に意味深、実に圧巻じゃないか! ねえ、君……って! あれあれ、何をするんだい? 君ッ!」
シンタローは、男波から跳躍した。
マジックが去った後も、名残惜しげに去ろうとしない男たち。その中にあっては、身動きなんて取れない男溜まり。
その上を。兄貴たちの逞しい肩の上を、シンタローは身軽に飛び跳ねていく。
マジックの消えた方向へと、駆け出していく。
背後から、山南の叫び声と、男たちのどよめきが追ってきた。
「待ちたまえ、君っ! 抜け駆けは許さないよォッ!!!」
シンタローは、黄金に縁取られた襖を抜け、大広間を駆け抜けて、薄明かりに照らされた渡り廊下を走る。
走れば、うぐいす張りの廊下が、きゅっきゅっと鳴った。
いや風流な、なんて感慨に浸っている間などない。
「貴様ッ! 許さんぞっ!」
マジックファンクラブ。
それは、まさに鉄の掟で内部統制された、恐るべき集団なのである。
掟を破る者には、すかさず報復がある。
だから傍目には秩序だった、会場ではゴミ一つ落さないような、そんな集団に見えるのである。
でも、怖い。ほんとは、怖い。羊の皮を被った、狼な兄貴たちなのである。
彼らの和を乱したシンタローの後ろからは、次々と追手の兄貴たちが、がしっ、がしっとアメフト並の強烈タックルをかましてくる。
「くっ……!」
それを振り払うシンタロー。すでに格闘状態である。
腕で、肱で、足で、あちこちから覆い被さってくるマッチョたちをいなす。転がす。かわす。
男たちが口々に叫んでいる。
「抜け駆けはしないという、マジックファンクラブの不文律を破る気か、貴様ッッッ!!!」
「チッ、んなの知るかぁぁっ!!!」
袖を引っ張られて、シンタローの着ているハッピが、音を立てて破れる。
シンタローは、ムッとする。本意なく着ているものとはいえ、破かれれば気分のいいものではないのである。
思わず眼魔砲を手加減して撃って、襲い掛かってくるマッチョたちを、一気に蹴散らしてやろうかと、そんな誘惑に駆られるが、それはできないと考え直す。
世界遺産。文化財を、そんなことで破壊して良いものではなかった。
……ただでさえ、マジックのヤツが、日本古来のサムライたちに迷惑をかけているのにぃ……っ! それはできねえ!
しかし、どこから沸いてくるのか、どんどんと男たちの圧力は激しさを増すばかりである。
マッチョをかき分けて進むシンタローの背後には、死屍(気絶)累々。
これでは、埒が明かない。
「くぅ……っ! 仕方ねえなあ! これならどうだあっ!!!」
シンタローは、懐へと手をやった。
そして、つかみ出したものを、一気にばらまく。
「!!!!!」
効果はてきめんだった。
兄貴たちの前進が、ぴたりと止まった。
惜しげもなくばらまかれたもの。それは。
「ああああッッ!!! そ、それは、マジック先生の未公開秘蔵生写真ッッッ!!! 略してPPMッ!!!」
男たちは、喰いついた。
「よっしゃあ――――ッッ!!!」
我先にと写真に群がる兄貴たちを後ろに残し、シンタローは城内を駆け抜ける。
びりびりに破かれたハッピを羽織ったまま、細く丸めたA3パンフレットを未だ握りしめながら、シンタローは夜を走る。
マジックの痕跡を探す。
あちこちを見回す。見回しながら、走る。
しばらく走れば、北の方角。夜空の星の薄い場所。
ふと、庭の奥まった場所に、ガンマ団員の軍服。
裏門らしい造りが目に入る。
そこだ。
勘が、働いた。
シンタローは、走った。
その場所に向かって、一気に突進する。
美しく立ち並ぶ松の狭間を、紅葉する木々の間を、すり抜ける。
輝く湖面を飛び越える。道を駆ければ、細かな砂利の音がする。落葉がくしゃりと崩れる音がする。
シンタローの背後で、二条城は淡い光にライトアップされ、荘厳な気配を漂わせていた。
この城の天守閣は、かつて落雷によって消失してしまったのだという。
今は本丸が、あでやかな曲線を空に描いて、優美な姿を見せている。
夜に映える白壁。
シンタローは、目を注意深く滑らせる。
壁。そこに佇む、重厚な木の扉。
門。
門は――閉じられている。
シンタローの突進に気付いたガンマ団員が、慌てて前面に立ち塞がってくる。
「ここは立ち入り禁止です、あの……」
そんな、お決まりの言葉を口にしたガンマ団員の顔が。
みるみる、青褪める。
ちなみにこの団員は、先刻、入場するシンタローをチェックした少年兵だったのだが、不運はこのようにして一人に一極集中してしまうものらしい。勿論、一生懸命だったシンタローは、そんなことには気付かなかった。
少年兵は、再び自由にならない言葉を搾り出す。
「そ、そそそ、そうす……」
「ええい、みなまで言うなああ!!!」
シンタローは、地面を蹴る。一際大きく跳躍した。
門の屋根に飛び乗り、跳ねて越える。
「だっ……く、くっそぉ!」
城壁外側に飛び降りた時に、門脇に備え付けの消火器と立て札――鳴子門と書いてあった――に、蹴つまづいてしまったシンタローであったが。
歯を食いしばって痛みに耐え、起き上がり、また走り出す。
目は、必死にマジックを探していた。
この小さな門からは、細く長い道が伸びていた。
そしてこの場所にも、会場に入ることのできなかったらしい男たちが、群れ満ちているのである。
ざわめき。ここにも熱気。興奮。『マジカルマジック
』と不吉な合言葉が囁き交わされている気配がする。
その兄貴たちの視線は、いきなり飛び込んできたシンタローには目もくれずに、一点を追っていた。
シンタローもその方角に目を遣る。長い道の先。
視線の先に。
見覚えのある銀色の巨大なリムジンの姿。マジックが外出の時に、よく、乗っているアレが。映り込む。
「……ッ!!!」
とうとう目標を捉えた。
シンタローは男たちの波の分かれ目、車の出た後の道を、ここぞとばかりに突き進んだ。
男たちの驚きの目が、シンタローに突き刺さる。
すぐに礼儀のなっていないファンクラブ会員に制裁を与えようと、その目がギロリと厳しい光を帯びる。
再びマッチョの海がシンタローを阻む。
ここでも体当たりで立ち塞がってくる男たちを、シンタローはかわす。避ける。当身をくらわす。
一人一人は大したことはないのだが、やはり集団で向かってこられると、苦しい。
シンタローの目の前で、ゆっくりと加速していく銀色の車。
去っていこうとする人。
無理矢理にでも捕まえて、自分が話をしなければならない人。
折角ここまで。ここまで、追ってきたのに。
俺は、追いつけないのか……?
「くぅ……」
思わずシンタローは、押し寄せる男たちの間から、叫んだ。
「待てっ! マジック! 待て! 待ちやがれぇッッッ!!!」
シンタローは、決断をした。
最後に残しておいたマジック生写真を、懐から取り出す。
再び、思いっきり高くそれらを投げ上げて、すべてばらまいた。
ぱあっと暗い夜空に、派手な写真が花吹雪のように舞って――こんな時でも、どーしてあいつの服は派手センスなんだと、シンタローは腹が立った――、男たちの『おおおッ!』という野太いどよめきが満ち満ちる。
腕を伸ばして群がる男たち、その隙を突き、空いたスペースを目がけて、地面に向かって眼魔砲を撃つ。
そして、飛んだ。
「いけえ〜〜〜〜っっ!!!」
ジェット噴射の要領だった。
シンタローの身体は、ぐうっと浮き上がり、走り去ろうとするリムジンの後姿を目がけて、放物線を描く。
男たちの上を、宙を飛ぶ。
白い光に包まれた城影の向こうに、なだらかな山が見える。冷気の中に包まれた、遅い紅葉が見える。街の屋根瓦が見える。
走り去ろうとする銀色の背中。
予想以上に、その速度ははやい。
「チッ……」
空中で舌打ちしたシンタローは、放物線の頂点で、もう一度小さく眼魔砲を、今度は空に向けて撃つ。
微細に角度を調節する。
そして、数度身体を回転させて、バランスをとると。
ダンッ!
ギリギリで、リムジンの巨大な屋根に、大きな音を立てて着地した。
磨き上げられた車の表面には、防弾装甲がほどこされているから、俺様の衝撃ぐらいで凹んだりするはずがないのである。ということにしておこう。
「うおっ!」
しかし車の速度に折角とったバランスを崩し、シンタローは倒れこんで、やっとのことで車の背に這いつくばる。
振り落とされないように、へばりつく。しがみつく。
シンタローの顔の側にある窓は、特殊フィルムでペインティングされているので、外からは後部座席の様子は窺い知ることはできないのである。
だが、内部では少なくともこの異変に気付いてはいるだろうに、どうしてか車は止まろうとしないのだった。
むしろ加速する勢いである。
「ぐ……止まらねえつもりかよっ……!」
シンタローは歯を食いしばりながら、キャディラックのエンブレムに爪を立てる。
そして超人的な平行感覚で起き上がり、リムジンの上を、ダン、ダンと勢いをつけて転がった。
「なら、こうしてやるぜッ!!!」
車の前方に回りこみ、シンタローは両手両脚を広げて、広角フロントガラスに貼り付いた。
運転手の前面に立ち塞がる。
キキキキキ――――――ッ!!!
たまらず、リムジンは、急ブレーキの悲鳴をあげる。
車体が、止まった。
銀色のリムジン。120インチストレッチの巨大な車体。ブレーキ痕。
ひらりと一回転したシンタローは、地面に着地して、少し顔をしかめた。
さきほど門を飛び越えて着地に失敗した時に、軽く足首を捻っていたのだ。
だけどそんなことに、構っている暇なんてなかった。
急に、自分がまだ身に着けていた、ぼろぼろに切り裂かれたピンクのハッピに思い至り、慌てて丸めて懐に入れる。
そして待つ。強い視線で、待つ。
アイツ。降りてきやがれ、アイツ……っ!
――マジック!
やがて。
シンタローの見つめる中で、リムジンの中央ドアがゆっくりと開く。
「……ッ!」
果たして。
降りてきたのは、二人の秘書たちだった。
シンタローは、思わず駆け寄って、広い車内を確かめた。二人の秘書の後ろを確かめる。
――いない。
いると思っていた男が、いない。この車には乗ってはいなかったのか。
木々が、ざわりと風に揺らめいた。
遮蔽ガラスの向こう、白手袋をした運転手だけが、シンタローを困ったように見返してきた。
立ち尽くすシンタローの背後に、冷静な声がかけられる。
「……総帥」
振り返らずとも、声の主はわかっている。
ティラミス。マジックの側近。
「総帥」
空の車内を見つめたまま、答えないシンタローに、彼は重ねて呼びかけてくる。
「……アイツ、どこ行った」
振り返らないまま、シンタローは、やっと、そう言った。
冷静を装ったつもりなのに、自分の声は、少し掠れていると思った。
それなのに、答えを返してくる相手の声は本当に冷静で、それが腹立たしいと感じた。
その腹立たしい声が聞こえる。淡々と。
「御一人で紅葉を見たいと仰って。別の出口から」
「……俺の質問に答えろ。アイツ、どこ行ったんだよ」
シンタローの剣呑な雰囲気を感じ取ったのか、慌てたチョコレートロマンスが、足元に縋りつくように転がり込んでくる。
「そっ、総帥〜っ! おっ、落ち着いてッ! 落ち着いてくださーいっ!」
「お前が落ち着け。答えられねーなら、引っ込んでろ」
「はっ、はあい、落ち着く、自分が落ち着きまーすっ」
シンタローは、どうしてこの自分がマジックに会うのに、彼らを通さなければならないのかと思う。
アイツは、どうしてこんな壁を、俺に対して作りやがるんだ。
一体、どうして。
俺にヘラヘラしながら近付いてくる癖に、俺が近付くと、拒否しやがる。
馬鹿だ。あいつ、なんて馬鹿なんだ。
そして……俺も。
「これが最後だ。アイツ、どこ行った」
シンタローは車を見つめたまま、再び聞いた。この秘書二人にも、自分の本気は伝わっているはずだと思った。
こうなったらもう、俺は。手段は辞さない。
重い沈黙が、落ちる。
しかし予想に反して。
「東山、清水寺です」
あっさりと答えが帰ってきた。
ティラミスは、シンタローの背後で静かに続けた。
「あの方が、行く先を告げて御一人になりたいと仰るとき、それは貴方に会いたいという意味だと。そう我々は了解しています」
「……!」
シンタローは、はじめて彼らの方を振り向いた。
すると、すぐ側にいたチョコレートロマンスと目が合って。
相手は、びっくりしたような目をして、慌ててコクコク頷いている。
その背後に、ティラミスの冷静な瞳があった。
彼は、言った。
「お仕えする方の本当のお気持ちを察するのも、秘書の仕事の内、ですから」
「お前……」
シンタローは、少し驚いた。
いつもは無表情のティラミスが、かすかに微笑んだような気がしたのだ。
----------
夜を、駆けていた。
マジックの行き先、清水寺は、二条城からは南東の方角、夜目にもなだらかに稜線を描く山の方だと、秘書たちに聞いた。
近くまで車を出すとも言われたが、断って、シンタローは走ることを選んだ。
もう誰の手も借りたくなかったのに加えて。
走りたい、気分だったのだ。
誰の手も借りずに、走って、自分の足で、あの男に会おうと思った。
夜も更けて、繁華街では空のタクシーが風を切る。
淡いネオンに包まれた道路を横切った時、せわしなくクラクションを鳴らされる。それでも走った。
烏丸通りを抜け、静かな水をたたえた鴨川を越え、京の街を、どんどんと走った。
街灯の明かりが、冷たい風に滲んでいた。
「……っ……」
途中、少し、よろける。
くじいた足が、痛い。
シンタローは痛みに顔をしかめながら、また駆ける。
どうしても、追いつかなければいけないのだった。
朱塗りの八坂神社を通り抜け、深い木々の道を行く。木々の向こうに、塔が見えてきた。
いつしか、場所は東山だ。穏やかな街並がシンタローを迎える。
はっ、はっ、と、自分の息がうるさかった。
シンタローは息を整えながら、一歩一歩、地を踏みしめる。跳ねる。
石畳で覆われた昔風の路地。軒を連ねる料亭、茶屋。
灯りはついているものの、時間が時間だけに、ひっそりと静まり返っている。行き交う人も、少なかった。清水寺の夜間拝観の時間も、とっくに終わっているのだ。
薄く香の匂いがするような気がする。
墨書きされた赤地の看板、水撒き用の木桶、ひんやりとした空気。
二年坂、産寧坂。町屋と社寺の入り乱れる坂道を、登る。紅葉は深くなる。落ち葉のざわめきは共鳴を増していく。
曲がりくねった石階段は、登れば、ぐるぐると回転しているような心地に襲われる。
回転しながら、どんどんと視線は高くなっていって、街は見下ろすばかりになる。
蒔絵を散りばめたような夜景が、見えてくる。
この道の先に、目指す場所はある。
流れる葉と葉の深くなっているところ、重なり合う色と色の濃くなっているところ、昼間とは違った顔、夜の紅葉の顔。
月明かりに照らされて、黄金の蝶がまとう燐粉のような輝きに包まれて、その奥まった場所はあった。
赤糸と黄糸が絡まって、もつれあいながら織りなした悠久の美。
和がつくりあげる幻想の世界。目を向ければ、吸い込まれてしまうような心持ちになる華麗なる幽玄。
轟門を通り、回廊を抜け、シンタローの足音ばかりが響く。
起伏に富んだ清水寺の境内、清水の舞台。
黄金の紅葉に包まれた、その頂。天に近い場所。見晴らす渓谷。星空と冷気。
かつて観世音菩薩に舞を奉納したという舞台は、夜の影とあでやかな紅葉に包まれて、神秘的な静けさをただよわせていた。
その中に。
――後姿。
「マジック!」
シンタローは、思わず呼んだ。
心の準備なんか、する間はなかった。
やっと追いついた。
そう感じた瞬間、声が、勝手に飛び出てしまった。
呼んでから、しまったと感じた。その後に続ける言葉がわからなかったから。
だが相手は振り返らない。
広い背中は、雄大な景色の中で、身動きすらしなかった。
金髪の男は、美しい風景を眺めているのだった。
ここまで追いかけてきたシンタローなんて、気にも留めない。まるでそんな風に。
きっと黄金に魅入られているのだ、とシンタローは思った。
黒髪の俺なんかじゃなくって、金色の美しい紅葉に。そっちに一生懸命なんだ。この輝きに、夢中なのだ。
「……マジック!」
シンタローは、再び、呼んだ。
それでも相手は、振り返らないのだ。
こんなにシンタローが、呼んでいるのに。
相手が振り返っても、どうすればいいのかわからない癖に、振り返らないのは悔しいのだった。
そして一番悔しいのは、こうしてどうしても名前を呼んでしまう、自分の気持ちだった。
どうして。
どうして、振り返ってくれねーんだよ。
俺のこと、見てくれねーんだよ……!
「昔ね……」
声が、聞こえた。振り向かないままの彼。
黄金の輝きの中、木目にも歴史を感じさせる欄干に手を置いたまま、こちらを見ない彼。
その後姿を見ながら、ふと、シンタローは。
先刻の自分と、この男は同じことをしていると思った。
もしかすると、俺とこの男は、似ているのかもしれないと、気付く。
振り向きたくない時が、ある。
本当に言いたいことが、言えない時が、ある。
とても大切なことを失いたくないために、いつも遠回りをしてしまって、不器用に壊してしまいそうな時が、ある。
「この清水の舞台から、命をかけて飛び降りれば、恋の願い事がかなう、という言い伝えを、日本人たちは信じていたらしいよ」
風が薄く吹いて、金よりも銀よりも儚い輝きたちが、ゆらゆらと揺れている。
立ち尽くしているシンタローの視線の先で、マジックの言葉は続く。
その声は、しんとした空気の中で、深く響いた。
「……でもね、損な生まれつきだよ。もしも私が、これぐらいの高台から飛び降りたって、恋に命をかけたことにはならないよね。そんなの、青の力を使えば。絶対に死ねないのだから」
「……マジック!」
シンタローは、また口を開いた。
名前を呼ぶ。名前ばかりを呼ぶ。
俺の声なんて、彼には、聞こえているのだろうか。
そしてシンタローが名前を呼んでいるのに、男は、まるで独り言のように、言葉を紡いでいるのだ。
届かない。この距離が、もどかしい。
「私は願掛けだってできやしないんだ」
この聖なる舞台には、自分と黄金の紅葉の他には、誰もいないというかのように。
どうしてこの男は、こんな風に、呟いているんだろう。
「普通の人間にはできることが、私にはできない」
「マジック!」
「誰かを好きだと思ったって。思ったって、いつも……」
「マジック! あ、あのなぁ! マジック……!」
「いつも、こうだ」
「……ッ!!!」
シンタローは、自分の頬に、みるみる熱い血が昇っていくのを感じた。
歯がかちかち震えてきた。握りしめた拳が、さらに強く強く固くなった。
長い黒髪が、ぴんと張り詰めたような気がした。眉毛が、吊り上った。
怒りが、込み上げてきたのだ。
くっ、と唇を噛む。
こいつは! こいつ、どーしてこの俺様が! 忙しい俺様がっ!
何でこんな男祭くんだりにまで追っかけてきたと思ってやがるんだよ!
なんだよ、この態度! この否定的ポーズ!
あんだよ、この寂しい雰囲気はっ!!!
だっ、誰にも好かれてないとか、思い込みやがって……!!!
俺を無視しやがって。
ああっ、もう、俺かよ、俺のせいかよっ!!!
怒りが込み上げてきて、シンタローの全身をその熱がグルグルと回って、カッカッと思考が沸騰して。
しかし次の瞬間、その怒りは、急激に冷えていった。
今までの自分は、マジックに会うことばかりを考えていた。
しかし、今、追いついて。
振り向かないマジックの背中を前にして。
シンタローは、次に自分がしなければならないことを、考えなければならないのだ。
この二人の間の溝を埋めるのは、どう考えても、自分の役目だった。
あ、謝る……。
シンタローは、マジックを追いかける道すがら、ずっと考えてきた一つの答えを、心の中で呟いてみる。
それはとても、シンタローとしては、苦手な行為だった。特にマジックに対しては。
でも。でも、と、シンタローは、反芻する。
謝んなきゃなんねーのかよ。
でっ、でもな! ここでヘタに謝ると、俺、罪を認めたことになりゃしねえか。
! 罪ってなんだヨ! なんだヨ、俺!
俺とあいつとの間に、どんな義理が……罪って……。
ぐ……ううっ……!
確かに、真夜中のあいつと、昼間のこいつが、別人だっていうなら。
別人だっていうなら、俺……俺のしたことは……。
で、でもな! でもなっ!
アンタの本当の気持ちが出てる姿が、真夜中のあいつじゃねえのかよ。
いつもは何にも俺に言ってくれない、でも表面上はベタベタだけはしてきやがる、そんなガード高すぎのアンタの本音の一つが、真夜中のアンタじゃなかったのかよ。
俺は、俺は、ずっとそう思って。
だから、ずっと知りたくって。
アンタの本当の気持ちが、知りたくって。
でも。でも……真偽はともかく、昼間のこいつは、それは違うって思い込んで、怒ってる訳で。
俺が、う、う、うわ、うわ……くそう、浮気したとか! とか! 思っちゃってる訳で……! くぅ、恥ずかしいじゃねえか、馬鹿マジック!
心の中とはいえ、俺にこんな言葉使わせやがって!!!
シンタローは、俯いた。
あの頬を叩かれた夜のことを、思い出す。
それから、帰らないマジックを待ち続けた夜のこと、心配だったこと、その居場所を調べたこと、そしてこの場所まで追ってきたこと。
すべてを、噛み締めるように思い出す。
……たとえば。
秘書たちは、この男に仕えていたり、場所を知っていたり、好みを把握していることを、『仕事の内ですから』と理由付ける。
その本音は知らないが、とりあえずはそういうことなのだろう。それで一応の説明はつく。
だけど、だけどな!
シンタローは、心の中で叫んだ。
お、俺ぁな! 仕事じゃねえんだよ。
アンタの帰りを待ってたのだって、心配だったのだって、調べたのだって。
こんなトコまで追いかけてきたのって、仕事じゃねーんだよっ!
それ、わかれよ! なんでわかってくれねーんだよ!
何で! 何で、この俺様が、こんなとこ来てやってんだよ……わかれ。それをわかれったら、わかれよッ!!!
それを何だよ! まるで誰にも好かれてないみたいなコト言いやがって……!
かつての言葉が、また。
シンタローが、日本酒という弱点を教えてくれなかったマジックを責めた時の、言葉が、胸に蘇る。
『秘密にしてた、教えてくれなかったって、言うけれど……お前の方から、私に興味を持ってくれたらいいのに……』
あんなこと言ってたクセに、いざ俺が近付くと。
拒否しやがる。
アンタのそういうのが怖くって、俺、自分から近づけないんだって。わかれよ。なんでわかってくれねーんだよ。
そういうのが、俺、イヤなんだよ。
俺、拒否されるの、耐えられねーんだよ。
そういうとこが、アンタの、嫌いなとこ。
ぐ……ッ!
嫌いでも……嫌いでも……。
嫌いなんだけど……う……うう……。
……。
懊悩するシンタローにも、今この瞬間、自分が口にするべき言葉が、わかってくる。
それは謝ることなんかより、ずっとずっと苦手なことで。
シンタローが、本当に本当にできないことだった。
謝るなんかより。謝ることなんかより。
こいつの欲しがってる言葉って。
謝るとかより、アレだよな、うん……ううう、アレなんだよな……。
それ言わなきゃ、納得しないんだろうな、こいつ……。
「……」
シンタローは、顔を静かに上げた。
マジックは、まだ振り向かないままだった。
後姿だけが悄然と、美しい景色の中にいた。それは一つの絵のようだった。
ただ眺めていれば、シンタローのいる現実から浮き上がって、絵となって、何処かへと行ってしまうのかもしれなかった。
俺が。俺が、行動を起こさなければ。
こいつはまた、何処かへと消えてしまう。
そうだよ。折角ここまで追ってきたんじゃないか。
求め続けてきたこの機会。
逃す訳にゃあいかねえ。
俺。踏み出せ、俺!
一世一代の勇気を出せ、俺!
シンタローは、ぎゅっと目をつむり、それから開き、喉の奥から声を絞り出す。
「お、おおおおおお俺は……俺は俺は俺はっ……」
そうだよ。
ここは、清水の舞台なんだよっ!
どんと! どーんと飛び降りろ!
飛び降りろったら飛び降りろ!
勇気を出して飛び降りるんだ、俺ッッ!!!
「あ、あ、あああ……あ、アンタの、アンタのコトがぁっ……」
クソッ、声が上手く出やがらねえ!
恋の願掛けに飛び降りたという過去の日本人も、こんな気持ちだったのだろうか。
声。声。声。
声だけじゃ、ダメだ。俺……ッ!
「くっ……」
シンタローは、だっと駆け出した。
目の前に広がる、夜の黄金、輝く渓谷。
シンタローは、舞台を駆ける。
一人立つマジックに向かって駆ける。
この場所からは、キョート市街が白銀のもやに包まれた、蜃気楼のように見えた。
それにちらりと目を遣りながら、シンタローは心に念ずる。
清水の舞台から飛び降りるんだ、ガンマ団本部の鉄塔から東京タワーからエッフェル塔からピザの斜塔から富士山からピレネー山脈からエベレストから飛び降りるんだ、俺!!!
シンタローは、欄干から、マジックに向かって跳躍した。
マジックの背中に、抱きつくように飛び込む。
そして無理矢理に相手の襟を掴み、ぐいっと渾身の力を込めて、こちらを振り向かせる。
揺れる金色の髪。
「……!」
しかしシンタローは、目を見開く。喉が詰まったようになる。
しばらく振りにまともに見た相手の顔は、何の感情も浮かべていないように、見えたのだ。
強引にシンタローに振り向かされたマジックは、無表情だった。
シンタローの黒い瞳は、マジックの青い瞳に出会って、怯む。
折角つけた勢いが、へなへなと萎みそうになってしまう。
ぐ、ぐぅ……。
思わずシンタローは、赤くなったり青くなったりしながら、遥か下方に目を遣った。
ここは高台。清水の舞台。人が勇気を出す場所。
「う……くうう!」
やべえ。マジにここから飛び降りるんなら覚悟はできてるが、アレを言うのは……言うのはぁぁぁッッッ!!!
飛び降りるより100万倍ムズカしいっ! 難易度高ッ!!!
よく考えてみれば、今日は恥ずかしいことを一杯してしまったシンタローなのである。
だけどこれは、別格で恥ずかしかった。とびきり恥ずかしかった。一世一代で恥ずかしかった。
一生で一番恥ずかしいのかもしれない。
すべてをグッと飲み込んで、シンタローは大きく息を吸った。
その衿を掴んだまま、至近距離でマジックを、見据える。
そして。震える唇を、開いた。
「お、俺は、なぁ……!!!」
「アンタのことが……ア、アアア、アンタのことがぁ……っ!!!」
ダメだ。俺。マジ泣きしそう。
どんな戦場に立つよりも、これはイヤ。
でも。でも。ここまで来たんなら、これを、言わねーと。
「すすすすすす……」
しかもマジックの目が、怖い。
俺なんてどうでもいいって、そんな目を、してやがる。
あーうー、ダメだ、膝がガクガクしてきたっ!
胸がバクバクいいやがるぅ――ッッッ!!!
でも……でも……っ!
「す――――――――」
「す―――――――――――」
シンタローは、息が続かなくなって、もう一度大きく息を吸い込んだ。
まだだ。まだまだだ。
グッと溜めて、声を絞り出す。
「す――――――――――――――」
まだだ。まだ。こんなんじゃ、足りない。
まだだ。まだまだまだまだだぁああああ!!!
「す―――――――――――――――――……」
その間、シンタローは、マジックの瞳を睨みつけている。
一度でも目を逸らせば、負けてしまうような気がした。
そんなマジックの瞳。
シンタローは、思う。
いつも、俺はほんとは怖いんだ。
この目は、ふざけているような時でも、決して笑ってはいないことがある。
俺に対して優しい目をしていても、ふと見せる表情の裏側は、とても冷たいことがある。
ずっとずっと、子供の頃から。
自分は、この男の青い瞳と、戦ってきたのだと思う。
この青い瞳に、俺はどうしようもない自分のコンプレックスを刺激され続けてきて。いつもその色の冷たさに、怯えてきて。
いつか、呆れられるんじゃないかって、ずっと……。
ずっとずっと。どんな瞬間だって、ずっと。
――今だって。
今度こそ。今度こそだ。
これで最後と決めて、シンタローは深く深く息を吸い込んだ。
この瞳に向けて言ってやる。言ってやるったら言ってやろーじゃねえかっ!
目の前で、無表情のまま自分を見つめる男に向かって、息を吐き出し、あらん限りの声を出そうと。
胸を、反らせた。
「す――」
突然。シンタローは。
自分の口が、何か強い大きなものに覆われるのを感じた。
出そうとした声が、塞がれた。蓋をされた。
冷たい感触。
マジックの、手の平だった。
「む……ぐっ……」
マジックの手が、シンタローの口を塞いでいる。
シンタローは、マジックの腕を掴み、必死にその手を引き離そうとしたが、相手の力はぴくりとも揺るがなかった。
出そうとした声が、喉の奥で詰まる。言いたかった言葉が、胸の奥に篭る。
苦しい。
息さえできなくて、シンタローの目尻には、生理的な涙が滲む。
手足をばたつかせると、くらっと夜空が回転して、シンタローは自分が地に押さえ込まれたのだと知った。
衝撃。ひやりとした固い舞台の感触が、背に痛い。
「う……うう……」
シンタローは、抵抗をやめた。
ぱたりとシンタローの腕が落ちて、そうしてはじめて、マジックの力が緩んだ。
口を塞いでいた手が離れた時、シンタローは胸を大きく隆起させて、はっ、はっと、天に向けて喘いだ。
見上げる夜空には、星がきらめていて。
そして自分をあの相変わらずの冷たいまなざしで見下ろす、マジックの金髪が揺れていた。
シンタローが、酸素不足でぼやけた視界をはっきりさせるために数度瞬きをすると、自分の頬を涙が一つ、伝っていくのを感じた。
涙とは別に、喉は乾いて、舌がひりつくようだった。
「……な、なんで……」
それだけを、やっと、シンタローは唇に乗せた。
憎らしいほどに表情の変わらない顔に向かって。
そして返ってきた答え。
「……嘘は、いらない」
マジックの、断定的な台詞。
彼は、こう静かに続けた。
「お前は私のことを好きではない」
「……!」
シンタローは、絶句するしかなかった。
二人の間に沈黙が流れる。
だがすぐに、弾かれたようにシンタローは身を起こした。
身を起こして、何か言わねばならないと思ったのだ。
何か。何か、この男に言わなければ。
言わないと。取り返しのつかないことになる。
だが、今度こそ本当に、言うべき言葉が見つからなかった。
シンタローは、立ち上がろうとした。
「つ……っ」
そして、痛めた足に、眉をしかめた。
佇んでいたマジックの視線が、小さく動く。
やがて、言った。
「足、どうしたの」
シンタローが戸惑っていると、マジックは指を伸ばしてきた。
足に触れようとしてくる。
シンタローは思わず、相手の伸ばしてきた手を、パシリと払ってしまう。
痛めた足を、背後にかばった。
「……関係ねーだろ……」
つい、自分までつっけんどんな答えが、飛び出てしまって。
シンタローは後悔した。
だが、一度俯いた後、顔を上げて、キッと相手を睨み据えた。
言った。
「何で、ンなコトきくんだよ……関係ねーだろ! 俺の気持ち、勝手に言い切るくせに、なんで俺の足とか心配すんだよ! ほっときゃいいだろ! 俺のことなんか、ほっときゃいいだろうが!」
少し間があって、静かな答えが返ってきた。
また風が吹いて、黄金の木々を優しく揺らした。
男の声が風の狭間で聞こえた。
「家族だから、ね」
「……ッ!」
ぽつりとまた、声が聞こえた。
「……家には、帰るよ。家族の元に」
そう言ったマジックは、シンタローに背を向けた。
シンタローが来た道とは、逆の方向へと歩き出す。
薄赤をした綺麗な落ち葉が一枚、風に舞う。
「明日は日本の友人に会う用があるから、帰れない。でもそれが終わったら、帰る」
シンタローは、その背にかける言葉も見つからない。
追いかけることも、ままならない。
まるで金縛りにあったみたいに、その場に立ち尽くしていた。
自分がマジックの伸ばした手を払った、その場所から、一歩も動くことができないでいた。
どうしたらいいのか、わからない。
ただ呆然としている。
去っていく男。
紅葉だけが、あざやかに夜を埋め尽くしていた。
最後に、こんな声が、夜の中から響いた。
「わざわざ迎えに来てくれて、すまなかった」