IF
「コタロー、お前は怒りを全面に出しすぎるよ。せめて慇懃無礼を覚えたらどう」
「せっかくのパパのアドバイスだけど、それもどうかと思うよ」
マジックは溜息をついて、腕組みをした。本気の口調で言う。
「実はあのスープ、後学のために一口ぐらい試してみるべきだったかと、ちょっと今、思ってる」
「だっ、だめだよ! パパが未体験ゾーンにトリップしちゃったら、誰も助けられないよ!」
「ハッハッハ! コタローがはじめてコモロくんの胞子を吸った時は、大変だったなー! チャッピー!」
「わーう!」
「一体何が起こったんだい?」
「やめてよ、パプワくんもチャッピーも! 最悪の思い出だよ!」
「それがな! 幻覚を見て、イトウくんの子供たちを焼き網でたらふく食べて、オカマに……」
「もーう、パプワくん! やめてったら――!!!」
一行は湖を後にし、苔が密生している湿原を行く。細い曲がりくねった道を行く。
浅く広がる鈍色の水面に、先頭を歩くコタローの顔が映って、次にチャッピーと、その背に乗ったパプワの顔が映って、最後にマジックの顔が映る。
とても不思議な心地がする。
干潟の泥地まで行けば、根っこが盛り上がったマングローブの林が広がっている。乾いた土に生きる木とは一風変わって、互いに繊細に絡み合った緑の木々が、風を通している。
マングローブ植物は、酸素が不足しがちな泥地に生息するので、呼吸をするために地表に、老婆の髪の毛のような根をたくさん生やしているのだ。
コタローはこの林の道を通る度に、今にも木々たちが立ち上がり、亡霊となって歩き出すのではないかと思ったものだ。
このパプワ島では、何があっても不思議ではない。
一人で歩く時は、ちょっぴり怖いとさえ思っていた。
今は、まったく怖くない。みんながいるからだ。一人じゃない。
マングローブの林は、海へとつながっている。潮の香りがする。
「海だ!」
毎日のように海を見ているにも関らず、思わずコタローはそう叫んでいた。潮騒の音を聞いた途端に、走り出す。
チャッピーが嬉しそうに吼えた。パプワが笑った。
白砂が輝いている。いつもは太陽の光に照らされているのだが、今は異世界の輝きに満たされて、砂の一粒一粒が光沢を帯びている。
水は銀色の鯨の背のように、しめやかな煌きを放ち、静かに砂浜を波となって濡らし、またひいて海となって深くに佇んだ。
コタローが走る旅に、後ろに小さな足跡がついた。その上に重なるパプワのこれも小さな足跡。もっと小さなチャッピーの足跡。
最後に少し遅れて、ゆっくりと大きな足跡が、一番上に重なっていく。
コタローは靴を脱いで裸足になった。靴の足跡よりも、逆くの字の上に五本の指が丸く並ぶ、裸足の足跡の方がコタローは好きだ。
この島に来る前は、偏平足ぎみだったコタローの足には、今やすっかり立派な土踏まずができている。
ぺたりぺたりとその足で波打ち際を歩き、模様をつける。模様はすぐに波にさらわれて、艶やかに砂地を磨く。またつける。その繰り返し。
立ち止まり、くるぶしを波に触れさせながら、しばらく水平線の向こうを眺めている。
まだ夕刻であるはずなのに、異世界にあるためか、まるで夜の海に来ているようだ。銀色の不思議な粉が、風のひとすじひとすじにまでも散りばめられているのだ。
夜の海、といえば思いだすことがあった。
コタローは水平線から目を逸らす。近くの砂浜では、パプワとチャッピーが貝殻を拾っていた。
いつの間にか、彼が側に来ている。マジックが側にいる。
父親は自分の側で、自分と同じように水平線の彼方を見つめていたのだと、コタローは今さらながらに気付いた。
寄せて返しての波音は、記憶に訴えるものがある。
コタローは、まだ大事に持っていた、ヒグラシ森で貰った雌花を、ぎゅっと左手で握りしめた。
それから口を開いた。傍らの人に向かってだ。
「パパ、男児試しって、知ってる?」
問われて、父親は首をかしげた。
「オットコ試し? いや知らないけれど、なんだかその名称にはシンパシーを感じるよ」
「うん、うすうす僕も思ってた。パパのセンスと被るとこあるって、記憶失いながらも、そこはかとなく」
「ハッハッハ! 端午の節句の行事だぞー!」
「わう」
「あのね、パプワくんが呼ぶと、海の向こうのあの辺りから、ウニみたいな神様とタコみたいな乗り物が、ズモモモ〜って来るんだよ! さすがパプワくんだよ
」
またコタローは父親に向かって、説明をしてやる。
行事の主役に選ばれて、湿った洞窟を通り抜け、水路をたらいに乗って行った話。途中で下半身にイカの脚を持つ男に出会い、その犠牲によって前に進むことができた話。
大人にとって、こんな話が面白いのかは疑問であったから、マジックにバカにされてしまうかもしれないと、少しだけコタローは思ったものの、そんな気持ちを払拭するように父親はしっかりと聞いてくれたから、コタローは話を続けることができた。
楽しい思い出を伝えるということは、さらに楽しい出来事だった。
だが、ほんの一瞬だけ――熱を入れて話している最中の狭い視界の隅に映る、マジックの顔が翳ったような気がして、コタローは自分は何かいけないことを喋ってしまったのかとドキリとした。しかし相手の顔はすぐに元に戻ってしまったようなので、気のせいであったのかとも思う。
おそるおそる正面から見上げてみたが、そこにあるのは散歩に出てからずっと接してきた、唇の端にほんのちょっと笑みを湛えたような父親の顔があるだけだった。
なんだ、大丈夫だ。大丈夫。パパは大丈夫。
自分に言い聞かせながら、コタローは考える。不安。僕の不安はどこからやってくるのだろう。
心の曇りを打ち消すように、コタローは説明の最後に、それまでよりも明るく言った。
「入り口には菊と刀が飾ってあったよ。奥の方には紫の薔薇とかもあった。あと銅像もマッチョマンだった。最後の謎が、微妙なダジャレだったよ」
「それはますますシンパシーを感じるね。今度そのイカ男くんを紹介してよ。前の島にもそんな方いたっけ」
「多分、見ても脳がスルーしてたんじゃないかなあ、パパは」
楽しい話は終わり、後には静寂が残った。
浜辺は不思議な程に、しんと静まり返っていた。見渡す限りの海だった。
コタローは水平線を見つめながら、再び過去の出来事を思い出そうとする。何か他にまだ父親に伝えるべきことはあっただろうかと、心の底を探ろうとする。
ああ、そうだった。コタローは考えている。
男児祭を催した時は、たくさんの人とナマモノがいて、自分を見送ってくれたのだ。祝ってくれたのだ。
この人気のない海は、熱気に溢れていた。
試練……試練の最後に、自分は……どうしたのだったか。何かが起こったような気がしている。
そうだ、水に流されて、横穴に落ちて……真っ暗で……。
――誰もいない場所に、閉じ込められた。
『ここから出して……』
これは誰の声だろう?
『もう一人ぼっちは嫌だよぉぉ……』
誰? 誰の声なの?
『みんな……大嫌いだ……!』
――ああ、僕の声だ。
「……?」
いつしかコタローは、自分の足元に目を落としている。ひやりと冷たい砂粒が、まるで生き物のように蠢いていた。
砂粒たちは互いに囁きあうように、身を寄せ合うように、またいさかいあって押しのけるようにして動いている。
コタローは不思議に思った。周囲を見回してみる。誰もいない。海もない。空もない。ただ砂だけが足元に広がっていた。
なぜ自分は一人でいるのか。一人砂地に立ちつくしているのか。どうして一人ぼっちなのか。
額に冷や汗が流れ落ちる。その内に悪寒がし始める。砂が侵食を始めたのだ。
裸足の足裏が飲み込まれていく。砂は小さな足指の間をうねり、土踏まずを撫で回し、踝を埋めていく。細い足首に絡みつく。
ぞわりぞわりと足に、砂が這い登ってくる。
「わあっ!」
慌ててコタローは足を動かし、砂粒どもを蹴散らそうとしたのだが、砂はやわらかく衝撃を受け止めてそれを飲み込み、変形していくのだった。
足首を飲み込み、膝小僧を飲み込み、腿にまで砂は滑りあがる。
ぬらついた化け物が、コタローを飲み込もうとしている。
砂は大きくしなり、まるで咀嚼するように波打った。
「や、やめてよっ!」
下半身まで砂に絡めとられたコタローは叫んだ。もう自分の足はぴくりとも動かない。埋まってしまった。だから腕をめちゃくちゃに振った。辺り構わず振り回した。
『どうしたんだ、コタロー』
どこからか声が聞こえる。声が遠い。その声がどこからくるのかがわからない。
コタローの目の縁に、涙が滲む。だめだ。自分はもうだめだ。
そうこうする内に、砂はコタローの胸にまで、そのざらついた触手を伸ばし始めていた。粘液のような、しかし濡れた重い砂。それが動く。全身を飲み込もうと、収縮をくりかえしながら、うごめきを砂一粒一粒に伝播させながら、砂は蠕動運動を続けるのだった。
嫌だ。信じられない。どうして僕がこんな目に合うんだ。
やわい首筋を、砂が包んだ。顎から顔の輪郭に沿って、砂は這い登る。
悪寒がコタローの胸をたえず痙攣させる。喉の奥から込み上げるものがある。胸を大きく上下させながら、コタローは再び悲痛な叫び声を上げた。
「あっ、ああっ……!」
声を発した瞬間、コタローの視界が塗り潰された。
自分は砂に飲み込まれたのだと感じた。
コタローは青い目を見開いた。体温を失った。
金色の睫の生え際がひりひりと痛む。背筋に震えが走り抜け、耳鳴りがして舌先に苦い味が広がっていった。
ここは砂の腹の中だろうか。どろりとした粘液の中にいるような心地がした。
息をしようとすれば、ヒューヒューと掠れた音が漏れるばかりだ。コタローは自分が生きているのか死んでいるのかすらも判別がつかなかった。
どうして自分はこの場所にいるのだろう。その想いばかりに囚われて目をつむれば、心が真っ黒に焼け焦げた炭のように崩れていく。煤を吹き上げながら燻る残り火は、赤ではなく、青だった。
眼の裏で、炎が燃えている。
青い炎が、なまあたたかい風に揺れていた。
熱くもなく冷たくもなく、温い微風は炎の先を尖らせ、ゆっくりとなぶるように円を描く。風は流れずに、一つところに逗留している。次第に澱んでいく。
怖くなって、コタローはまた目を開いた。目を開いた先にも、青い炎が燃えていた。
不意に炎の向こうに、赤い服を着た悪魔が出現した。
悪魔だ、と視覚よりも先に肌が悟った。あれは怖いものだ。信じてはいけないものだ。そう心が訴えかけてくる。
逃げろ。逃げるんだ。だが足が動かない。
硬直したコタローに、悪魔の手が迫ってくる。捕まえようと手を伸ばしてくる。
「ひっ……!」
喉の奥から、掠れた声が出た。コタローは夢中でその手を払った。しかし払っても払っても、その手はコタローを掴み取ろうとして、指を伸ばしてくるのだった。
指は青い血に塗れていた。闇よりも濃い青色だ。よく見れば炎と同じ色をしているのだ。
コタローは恐怖に怯える。あの手に捕まれば、自分はさらわれてしまうのだと感じている。
僕はさらわれる。また誰も知る者のない場所に連れて行かれる。閉じ込められる。
渾身の力を込めて、コタローは、その手に抗った。コタローはかつて知っていた。この手に抗うことは、自分の運命に抵抗することであったことを。
この手が消えてなくなればいいと思っていた。この手が動かなくなった時に、自分は自由になれるのだと思っていた。
憎かった。
そして今も感じた。憎悪の波動を。喉の奥から込み上げるものは、猛烈な感情のうねりであるのだ。
自分が自分に飲み込まれていく感覚を、コタローは味わっている。
殺せばいい。殺せばいいんだ。青い炎が囁いている。
飲み込まれた胃の底に横たわるのは、過去の記憶。コタローの口から言葉が零れ落ちた。
この手が。この手だけじゃなくって、すべてが憎い。
みんな、みんな……。
――死んじゃえばいいのに。
目の前が暗転し、視界が切り替わった。
耳のすぐ後ろで、遠ざかる炎がはぜる音が聞こえていた。闇の残り香が鼻を通り過ぎ、すぐに消えた。後には何も残ってはいない。
コタローは砂浜に座り込んでいた。さっきまでの光景が嘘のように、いつもと同じ海が広がっている。波が砂浜に弾け、小さな飛沫を撒き散らしていた。
両の手足は乾いているのに、まるで水に濡れたように、ぐっしょりと重い。首筋に嫌な汗がこびりついている。
まだ心臓はどくどくと鼓動を打ち鳴らしていた。
「くっ……」
頭が痛い。
僕は何をしていたんだろう。静かな波の音を聞きながら、コタローは思った。
そうだ。僕は島にいるんだ。ここは砂浜だ。また島に落ちて……御飯を食べて……それから島を……案内……。
……誰に?
「コタロー」
現実の声が、いやに大きく聞こえて、コタローはびくりと肩を震わせた。狂った三半規管が異常を告げる。
あの悪寒が蘇ってくる。
怖い。怖くてたまらない。
目の前に手が近付いてきた。手だ。あの悪魔の手と同じ指のかたちをしている。
「いやだっ!」
コタローは自分に伸ばされた手を払った。皮膚を打つ乾いた音がした。
ヒグラシ森でもらった、実になる前の雌花がコロコロと砂地に転がった。
コタローは頭を上げて、正面に立つ人の顔を見つめた。彼は黙って、拒否された自分の手に目を落としていた。
その表情を見てコタローは、先刻まで自分が打ち払い続けていたものは、父親の手であるのだと知った。
「ご、ごめん、パパ!」
長い沈黙の後、コタローはやっと唇の間から飛び出してきた自分の言葉に、必死にすがった。
何か言わなければいけないと思った。だから懸命に言い訳をした。
「あのね、その、気分が……僕、気分が悪くなって……」
怒らせてしまったかと思ったが、こちらを見返したマジックの顔は、もう平静そのものだった。
静かに彼が口を開く。その様を逆に怖いとコタローは感じてしまって、すぐにそんな自分を恥じた。
パパは、怒ってない。怒ってないのに……。
「いや、そんなことより。顔が青いよ。大丈夫かい、コタロー」
「う、うん! もう大丈夫だよ!」
濡れてざらついた小さな感触がして、近付いてきたチャッピーが、心配そうに頬をなめてくれたのだとわかった。
大切な友達である犬の背を撫でながら、コタローは繰り返す。
「もう大丈夫。大丈夫だから……」
チャッピーの背後から、パプワまでが顔を覗き込んできた。
「コタロー! 立てるか?」
「……うん」
ぺたりと尻餅をついていたコタローは、重い足を動かして、何とか立ち上がろうとした。自分の足が、ただの木切れになってしまったようだった。砂地に棒を立てるように、コタローは慎重に立ち上がる。
黒いスパッツは砂に塗れ、服の隙間にも硬い粒が入り込んでいて、肌に痛い。手でそれを払いながら、コタローはパプワとチャッピーに向かって笑いかけた。笑うのが難しかったが、頑張って口元を緩めた。
マジックの方は見ることができなかった。
ぽん、と日の丸扇子を開いて、パプワが言った。
「それじゃテヅカくんとタケウチくんに、気分のよくなる薬をもらって、そろそろ帰ろう!」
「わーう」
波の音が遠くなる。砂浜の足跡は、今は窪んだ傷跡のように見えて仕方がなかった。
今度はパプワが先頭に立ち、チャッピーが追いかける。
コタローはその茶色い背を見ながら、後をついて歩いた。皆を心配させないように背筋をなるたけまっすぐにして歩いたのだけれど、背中の気配にどうしようもなく神経を尖らせてしまうのは、やめられなかった。
背後の男の周囲には、独特の空気がある。自分が物心ついた時から、感じてきた空気だ。
強く意識し始めてしまえば、息が詰まるような。心を許すことはできないような。他者に不安を与えるような。威圧されてしまうような。
もしも自分に自信があったなら、とコタローは思う。
僕に自信があれば、パパのこんな空気も、へっちゃらなのに。パパはパパだって思って、受け入れられるのかもしれない。
自信? 何の自信だろうか。僕は今、どんな確信の上に立っているのだろうか?
――パパ。
ほんとのパパは、どっち?
怖いの? 優しいの? 僕のこと、どう思ってるの?
そして、パパが変わるみたいに、僕も変わる。あの青い炎に飲まれて、変わってしまう。
ほんとの僕は、どっち?
悪い子なんだろうか? いい子なんだろうか? 僕は本当の自分が、わからない。
コタローは歩いた。背後の気配は変わらない。彼が何を考えているのか、ずっと気にしながら歩いた。
鬱蒼とした森のはずれに、奇妙な形をした家がある。壺のような建物の上から、怪しげな煙が立ち昇っていた。
沙婆斗の森の魔法薬屋である。
森の草木が赤みを帯びた不思議な色に変わり、しなびていけば、この薬屋に近付いたのだとわかる。秘密めいた実験が繰り返された結果であるらしい。実験後の廃物を狙ってか、カラスが群れをなしていることも多い。
今も訪問者の姿に、枝垂れた木に並んで止まった無数のカラスたちが、一斉にこちらを向いた。黒い羽根が舞い落ち、ギャアギャアと、くすんだ黄色い嘴から声が、薄暗い空間に響き渡っている。
「お邪魔するぞー!」
薬屋の前に立ち、パプワが声をかけた。木製の丸いドアを開けて、足を踏み入れる。
すると、
「キィー、キィー
」
「くいーん、くいーん
」
打って変わって、キュートな二人が出迎えてくれた。
黒い帽子を被ったコウモリと、星印のついた三角帽子にマントをした、お目めきらきらのチワワである。
コタローも建物の中に入る。二匹の挨拶を受ける。
二匹。テヅカ&タケウチ。往年のパプワ島マスコット、エグチ&ナカムラに並ぶ、胸きゅんアニマルのコンビである。
しかし彼らには――正確には、主にチワワ――その可愛い外見とは裏腹に、毒がある。
愛らしい姿の背後には、棚に所狭しと気味の悪い物体が並べられているのである。ドクロ、骨格標本、水晶、奇妙な動物のホルマリン漬け、不思議な色をした植物の根、妖しい色をした液体の詰まった瓶、壺。
天井から吊られた重々しいカーテンが少々古風だ。その陰に、古めかしい背表紙をした本が乱雑に置かれている。何やら薬の調合らしきものを書きとめたメモ類が、あちこちに挟まったり貼られたり。
そして手前の実験台の上では、幾つもの試験管やビーカー、フラスコが泡立ち、不気味な匂いを漂わせている。
チワワはチャッピーがお気に入りのようで、なんだかハートマークを飛ばしながらシッポをぶんぶん振っていた。
チャッピーってハンサム犬なのかな、とコタローは考えて、ああこんなこと考えてる場合じゃないと気付いて、彼ら二匹にマジックを紹介した。
名古屋ウィローって人から魔法薬の作り方を教わって、この二匹は薬屋を開いたんだよと、過去にパプワから聞いたことをそのまま繰り返すと、マジックは納得したようだ。
ウィローはかつてはマジックの部下で、今もガンマ団本部に勤務しているらしい。
前のパプワ島にも一時期住み着いていて、コタローが島に来た時にもいたのだということだが、コタローはウィローを見たという覚えはない。あの時の記憶は、ぼうっとした霞の中にあるようで、意識すれば罪悪感に苛まれるのはわかっていたから、思い出さないようにしているだけなのかもしれないのだけれど。
会話の間中、コタローはたえずマジックの表情を窺っている自分に気付く。彼の目の動き、眉の動き、口元の動きを、目が追ってしまっている。
そしてそれが止められなくて、相手に変に思われるかもしれないと不安になって、目を逸らしてしまう。
目を逸らした先に、炎が揺らめいている。
先刻の幻覚の中での青い炎を思い出し、ハッとしたコタローであったが、すぐにそれは実際に燃えている炎なのだと認識して、胸を撫で下ろした。何より色が違った。これは赤い。
テーブルの上で、小さな頭蓋骨を台にして――小動物のものだろうか――ろうそくが静かに輝いていた。
チワワとコウモリに向かって、パプワが言う。
「コタローの気分が悪いらしい。スマンが、薬を作ってほしいんだ!」
二匹は即答するように鳴いて、コタローの方を向いて手を振った。
「キィー」
「くいーん」
「喜んで、と言ってるぞ」
その様を見て、コタローは笑顔になった。
「わー、ありがとう」
仕事の依頼を受けて、二匹はさっそく作業に取り掛かるようだ。
トコトコトコとチワワが歩き、パタパタパタとコウモリが飛んで、家の中央に大きな壺をセットし始める。
色とりどりの草花や果物がカーテンの裏側から取り出されてきた。コタローはその見た目に綺麗なラインナップを前にして、少し安心した。青々とした幾種もの葉や、赤や黄色の可憐な花びらたち。茶色の木の実。水気をたっぷり含んだ肉厚の果物たち。
なにしろこのアニマルたちは、相手を見て、薬の調合や料金設定を変えてしまう、ちゃっかり屋さんたちであったからだ。毒キノコや毒々しい原材料が出てこなくて良かった。
実はいまいち、この二匹に自分がどう思われているのかが、わからなかったコタローであるが、少なくとも好意は持たれているようなので、なんだか安心した。
まあパプワくんが頼んでくれたかもしれないけれど、とも思い、でも同じ条件で、家政夫はボラれてた気がする、とも思い出す。モテない薬の一件だ。だとすれば、好意のあるなしって、別なのかな? ボりやすいか、そうでないか?
コタローが、そんな風に二匹の商売根性について思いを巡らしている間に、材料をすべて投げ入れられた壺は熱せられて湯気をたてはじめ、台の上に乗ったチワワと、羽根を揺らすコウモリが大ぶりの匙で混ぜる度に、芳香を放ち出す。
「いい匂い!」
「わう
」
お菓子を食べる前のドキドキ感が、条件反射的に込み上げてきて、コタローはまた笑顔になった。
不思議だった。この島にいる自分は、いつも笑顔になるのだ。
ハーブを多く入り混ぜているらしく、爽やかな香りが家中に満ちていく。
やがて二匹は紅茶を煮出しているのだとわかった。
「……素敵な香りだね。今度、私も似せてお茶を入れてみたいな」
海を離れて以来、ほとんど口をつぐんだままだったマジックの声が聞こえて、思わずコタローは耳をそばだてた。そばだてるだけではなく、振り返ってしまった。
マジックと視線が出会う。唇が動くのが見えた。
「ここは南国の島だから、熱帯ハーブの類は集めやすいだろうし。彼らが壺に入れていたハイビスカスや青パパイヤ、アセロラだって、歩いてくる途中で見たよ。考えてみれば素晴らしい環境だ」
島のことを褒められてコタローは少し嬉しくなり、またこうも思った。パパもお兄ちゃんと一緒で料理好きだから、研究熱心なんだなあと。青の一族ってこういう趣味の人が多いのかな。
二人の間に張り詰めていた見えない糸がわずかに緩んだ気がして、コタローの気分は少し軽くなる。
また目をちょっと伏目がちにして、彼の表情を窺ってしまう。さっきのこと、パパは気にしてないのかな。怒ってないのかな。
このまま、また接しても、大丈夫なんだろうか。
コタローにとっては、父親との距離を測ることは、まだ慣れない。いつも悩む。言動や行動を起こす前にも悩み、後にもまたくよくよと悩む。コタローは、彼の側にいると、自分の内向的な部分が晒しだされるようで、怖くなる。
目の前では彼が、自分に向かって話している。他の誰でもない、自分に向かってだ。ぐるぐる思考を巡らしながらも、コタローは彼の言葉を必死になって聞こうとする。
マジックの声は、いつもの落ち着いた低音だった。
「私が作っても魔法の効果はないだろうけれど。ああ、ガンマ団でウィローに教わっておけばよかったかな」
彼らは企業秘密だから教えてくれなそうだし、と早くも二匹の性格を察したのか、マジックが小声でそう言って、肩を竦めた。
そしてしばらく黙る。黙ってから、コタローにだけ聞こえるような声で、こう呟いた。
「また……お前の気分が悪くなった時のために、私も作れるようになりたいよ」
「……! パパ……」
コタローは驚いた。マジックの言葉に驚いたのではない。
自分の胸が、すうっと楽になったことに驚いたのだ。どうして、こんな簡単に。一瞬で。
見えない糸が溶けていく。
魔法の効果? 魔法の効果なんて、なくたって。
コウモリが小さな壺を抱えてくる。そして仕上げとばかりに、黄金色の蜂蜜を大壺に垂らしこんでいく。
とろりと蜜は円を描いて、見事な薄赤色をした紅茶に飲み込まれていく。
「キィー、キィー!」
「くいーん!」
「おお、できたそうだぞ」
二匹の宣言と、明るいパプワの声が響いた。
それからはみんなで、お茶の時間だった。英国には日に7度もお茶の時間があるというけれど、本当だろうか? この夕刻頃に飲むお茶が、正式なアフタヌーンティーであるらしい。
和やかな時間が過ぎた。さっきまでが嘘のように。
また数刻後には、コタローは落ち込むのかもしれなかったが、それでもよかった。浮き沈みが激しくても、浮いていられる時間を大切にしようと思った。
そうすれば、長い時間を浮いていられるようになれるのかもしれない。
すべてをひっくるめて考えれば、僕は幸せだったと言えるようになれるのかもしれない。
後悔しないように、楽しい時間を大切に。
今この瞬間はそう思えるのだから、そう思っていることにする。そう思っていたい。
「コタロー、気分はよくなったのか?」
「うん、パプワくん! 紅茶おいしいね! みんなありがとう」
「ハッハッハ、それはよかった!」
――僕はいつか自分が幸せだったと言える大人になりたい。
一行が帰る時間が近付いていた。
異様に安価の勘定を済ませた後、思い出したようにコウモリがまた、カーテンの裏から取り出してきたものがある。
七色の輝きを放つ風船だった。縛り口に紐を垂らし、風船はふわりふわりと宙に浮いている。
この魔法の風船を、コタローは知っている。いつかの頃、チャッピーがこれにつかまって、魔法薬屋から帰ってきたことがあった。
チャッピーが偶然見つけたという隕石のかけらから、二匹が作り上げたスタールビー。その輝きを詰めた風船だ。
この風船を手に持って、行きたい場所を念じれば、願いがかなうのだという。これを使えば、パプワハウスまで、ひとっとびで帰ることができるのだ。
人数が多いから一緒に帰るにしても、もう一つは必要ですよね、少々お待ちを等と言って、二匹は奥へと下がっていった。
風船は今、パプワの手の内にある。きらきら、きらきら輝いていた。
それを見て、コタローの脳裏に閃くものがあった
僕にはもう一ヶ所、パパを案内したい場所が残っている。
まだ、伝えたいことが残ってる。もう後悔したくないから。
「あのね、パプワくん! 僕にその風船かしてよ。まだ行きたいところがあるんだ!」
思い迷うより先に、口から言葉が飛び出てきた。
パプワがこちらを見た。
「行きたいところ?」
「……いい?」
少し弱気になって、コタローはパプワに尋ねてみた。なんだか不安だったのだ。だが、
「オマエが決めるんだ」
返ってきたのは、力強い言葉だった。大切な友達は、言った。
「今日の主役は、お前とマジックだからな!」
そうだったね。今日は、僕がパパを案内しているんだ。だから、僕が決めるんだ。
「僕、もう一ヶ所、行きたい所があるんだ」
弱気を振り捨てて、今度こそコタローは、しっかりと口にした。
「パパに……見せたいものがある」
チャッピーが嬉しげに尻尾を揺らしている隣で、パプワが笑った。
「なら、二人で行ってこい! 風船一つじゃ、ぶらさがるのに二人が限度だ! テヅカくんとタケウチくんは、まだ時間がかかるみたいだからな!」
そうだ。思いついて、そのまま口に出してしまったが、こんな小さな風船一つでは全員で行くことはできない気がする。
新しい風船ができるのを、待ってから言い出した方がよかったのだろうか。
でもパプワくんはこう言ってくれている。ここにパプワくんとチャッピーを置いて。
僕と……パパが?
――二人で。
これが数時間前、散歩に行く前のことなら、コタローは尻込みしただろう。
彼は思う。自分の心の中を確かめる。
僕は怯えているんだろうか。いや、そんなことないよ。大丈夫だよ。
大丈夫。だってパパだもの。僕の、パパだもの。
こんなに怯えてばかりいちゃ、僕は一生このままだ。自分から一歩でも踏み出さなければ。
後悔しない大人になんか、なれっこない。
コタローは一つ息を吸うと、パプワとチャッピーに向かって明るく言った。
「そんなに時間はかからないから! すぐ戻ってくるよ!」
差し出された風船を受け取ると、コタローは一人と一匹に微笑みかける。
「……」
そして右足を軸にして、勢いよく向きを変え、背の高い男の方を見た。見上げる。心に描く人と相対した。
また自分の肩は震えていると思った。情けない。
しかしコタローは勇気を振り絞って、細い腕を突き出した。大きな声で、はっきりと言った。
「パパ、一緒に来て!」
相手の手を、とった。
その手は、飛空艦から落ちる時に握られた手であり、砂浜でコタローが激しく打ち払った手だった。
マジックの手をひいて、コタローは扉を開け、外に出る。蝶番が悲鳴をあげて、きいきい鳴いた。
右手を上げる。七色の光を撒き散らす風船を、空に向かってかざした。銀色の星座で彩られた異次元の空は、風船の輝きを受けて、競うように輝きを増す。
そして、念じた。行きたい所へと。僕とパパを、あの場所に連れてって!
すぐにコタローの想いを受けた風船が、燦然と周囲を照らす。
ふわり、とコタローの足が浮かび上がり、地面から離れていく。浮遊感と共に、ぎゅっと握りしめられる感触がした。
風船に気を取られていたコタローは、傍らを見る。手をとられていただけのマジックが、あちらから手を握り返してくれたのだと気付いた。
「パパ……」
「行こう。その場所へ」
「うん!」
コタローに続いて、マジックの足も大地から浮かび上がる。
二人は不思議な淡い光に包まれている。黄金色の輪。この輪は、重力を無効にする反重力の効果でも持っているというのだろうか。世界の束縛から二人を切り離す魔法の力は、空のきらめきと共振するように、ゆっくりゆっくりと親子を中空の人とする。
「わあ、すごいや!」
「本当だね。こんなのは私もはじめてさ」
光の輪は、静かに魔法薬屋の煙突を過ぎていく。沙婆斗の森の木々を越えて行く。
異次元の空では、さそり座が禍々しい巨体を横たえて、尻尾の毒を誇示しているかと思えば、乙女座がたおやかな笑みを浮かべている。
その空めざして、コタローとマジックは、どんどんと上昇していく。
銀色の星雲は、銀粉をちりばめたクリスマスの飾りのようだ。惑星たちは丸い玉飾り。流れ星は羽飾り。小さな赤褐色の小惑星は、赤い実。
クリスマス・イヴに生まれたコタローは、なんだかその光景に懐かしいものを感じた。胸が高鳴る。ホーリー・ホリー。子供たちに祝福を。僕は今、空を飛んでいるのだと考える。
そうだ。パプワくんだって。こないだ聞いたら、僕と同じ誕生日なんだってさ。だったよね、パプワくん。僕、それを知った時、とっても嬉しかったよ!
コタローは足下に視線を下ろす。
小さくなっていく地上では、同じように小さくなったパプワが手を振っている。チャッピーが後ろ足で立ち上がり、前足を振っている。
友達に向かって、コタローはできる限りの大声で叫んだ。
「行ってくるね――! パプワくーん、チャッピー!」