総帥猫科
「ああ……」
すすす、と秘書たちが用意した豪華イスに腰掛け、マホガニー製のティルトップテーブルに肘をつき、熱い紅茶を口に運びながら、苦悩にさいなまれているマジックである。
彼の背後のあちらこちらでは、作業に勤しむ秘書たちの姿が垣間見えている。
まめまめしく働く彼らは、互いに分担協力し合いながら、撤収作業を進めている。素晴らしくデキる秘書な彼らであった。もっとも彼らのこの能力は、過酷な日々の実戦(秘書課は戦場だ!)と、たゆまぬ鍛錬によって培われたものであることは、言うまでもない。
環境が人を作るのである。
秘書たちの環境に一番影響を与える男は、今、内なる葛藤の真っ最中であった。
テーマは、愛。
「……シンタロー」
シンタローの残した黒いコートを胸に引き寄せながら、マジックは嘆息した。
アンティークの趣をたたえたテーブルの足の側には、網をかけた時に脱げた同人のブーツが、きちんと揃えて置いてある。あの猫足で、よくも今まではいていたものである。おそらく紐をきつく締めていたのであろう。
ともかくもシンタローは、これでまた一段と風邪を悪化させやすい状況になってしまったということだ。足元が寒くはないだろうかと心配しながら、マジックはさらなる問題に、頭を悩ませている。
彼は、そっと言葉を唇に乗せた。
「立場が逆になってみると、辛い」
マジックの心にあるのは、これも先だっての真夜中の事件に関係することなのである。
真夜中の事件とは何か、それは日本酒を飲んだマジックが別人格になってしまった事件である、というのは、先に説明した通りなのであるが、その時にいたくマジックの気持ちに触ったのが、シンタローが別人格のマジックに好意を持ってしまい、積極的にアタックしていたという事実なのである。
まあ、本人の説明によれば、別人格であるとは思ってはいなかったということだが。これがマジックにしてみれば、いまだ微妙に納得のいかない問題であった。
しかし今。両者の立場は全く逆になってしまった。
別人格であるかもしれない猫化シンタローと、追いかけるマジック。
先程、自分はシンタローのあられもない喘ぎ声を聞き、ドキッと胸をときめかせてしまったのである。しかし。
――もしここで、自分がシンタローに手を出してしまえば。
マジックは、静かに呟いた。
「あの子は、傷付くよ……」
ああ、シンタロー。
あの子はプライドが高いから、ひどく心を痛めるに決まっているよ。
猫の俺の方がいいのかって。俺自身のコトは好きじゃないのかって。
絶対にそういうことになる。もう私とは口をきいてくれなくなるよ。
この点、真夜中の事件を経ているだけに、マジックの事態予測は正しい方向に向かっていた。
立場を逆にして、今度はシンタローが、過去の心を痛めた自分と同じことに、なってしまうのだろう。
同じ轍は踏みたくなかった。
だがしかし。だがしかし、なのである。
先刻、自分が必要に迫られたとはいえ、組み敷くことになってしまったシンタローの、あの姿。つい首筋を押さえてしまい、悶えさせてしまったあの姿。
あれは……。
あれは、あれは、あれはぁっ!!!
そこまで考えたマジックは、自分に言い聞かせるように、大声を出した。
「待て! 待て待て! 再確認しよう!」
そして急にティーカップを置いて、ザッと長身で立ち上がる。
そんなマジックのいきなりの行動に、側に控えていた津軽少年が、ビクッと身を竦ませた。
彼は秘書課所属ではないため、一連の組織的行動には加わることなく、とりあえずはマジックの世話係をあてがわれていたのである。怯えた少年は、手にしていたクッキーの缶を、思わず抱きしめた。助けを求めるように、辺りを見回す。
ホウキとちりとりを持って、清掃活動をしていたチョコレートロマンスが、すかさず的確にアドバイスする。
「あっ、津軽くん、ここは秘書としては空気になりきることが大事だから〜」
「確かに、にゃんこシンタローは、カワイイ!」
マジックは、ぐっと拳を握り締め、渾身の力を振り絞るように叫んだ。
「カワイイんだ! 猫耳シッポで、もふもふ猫足のシンタローは、すっごくカワイイ――――!!! 激しく私の好みだ! 好みなんだ――――!!!」
(津軽ク〜ン! 空気、空気! 慣れない内は、息を潜めて!)
「シンちゃんは、いつもカワイイけど、猫シンちゃんもカワイイんだ――!!!」
カワイイんだー、カワイイんだ――と、森に木霊する声。
夜の闇に向かって、心ゆくまで叫んだマジックは、ふと憂鬱の色で表情を曇らせ、自嘲気味に笑った。薄い唇がかすかに歪む。
「フ……」
森は彼の声を受け止め、そして風のざわめきの中で、すぐに消し去った。同じように消えたシンタローの背中が、彼の脳裏によぎる。
(チョコレートロマンスさん、空気になるって、こうだっぺか?)
(そうそう、そんな感じ! マジック様の憂鬱モードを邪魔しないように)
「だが……」
そこで声のトーンを落とし、マジックは崩れ落ちるように椅子へと腰を落とした。美しい装飾の施された椅子は、主人の悲しみを感じ取ったかのように、ぎいと鳴いた。ワインレッドの張り地が、夜目にもあざやかにしなる。
マジックは、ほう、と深い溜息をつき、こめかみに手をやって、物思いに耽り始める。静かな夜だ。吐く息すらも、ゆるやかに溶けていく。
(津軽くーん! お茶! すかさずお茶入れ替えて!)
(わ、わかりましたっぺ!)
ルビー色の液体が注がれたティーカップを指に絡め、マジックは青い目を閉じる。
猫に先祖返りしたシンタローは、確かに可愛くて仕方がないのだけれど。
やはり真夜中の事件を思えば、私は自制するべきなのだ。マジックはそう決意し、唇を噛みしめる。
第一、猫になってしまった経緯を考えれば、あの子が可哀想じゃないか。
赤の番人の体に、青の番人の精神のコピーを持つシンタロー。いつも強がりを言って、俺様に振舞ってはいるけれど、彼がひどく脆い心の持ち主であるということは、マジックは弁えているのだったし、だからこそ大事にしたいという気持ちと、そそられる嗜虐心との入り混じる複雑なカオスに、自分が陥ってしまうことも、弁えているのだが。
それはともかく、先の南国の島での出来事よりも程度は激しく落ちるものの、赤の玉と青の玉の対立によってもたらされたのが、今度の事件なのである。
その状況を利用してはいけないだろう。
猫化状態が、いくら可愛くて仕方がないからといえ、ここはグッと堪えて、保護すべきである。
真夜中の事件を経なければ、マジックは自分がこう考えることができたかに、自信がない。自分は、あの時のシンタローと同じ判断をしたのかもしれない。だが人は経験によって、賢くなる。
自分たち二人は、この方面に関する限り、けっして器用な人間でも関係でもないのだが、前へと進んでいくことは、できるのだ。
マジックは、なんとかシンタローの身も心も傷つけることなしに、早くこの腕に抱いて連れ帰り、あったかくして眠らせなければと強く思う。
「……」
そうだ。私はシンちゃんの身柄を確保するのと同時に、自分の欲望と戦うのだ。
エロスに純愛が勝利するべきなのだ。そうだ。純愛ばんざい。ラブラブばんざい。ピュアばんざい。
さあ、私の葛藤に決着をつけよう。今は純愛を優先させるべきである。理性がんばれ。猫がなんだ! いや……カワイイけれど。カワイイけれどっ!
猫シンちゃんも好きだけれど、私は、いつものシンちゃんが大大大好きなんだ!
今こそ、男をあげる時だ。
いいか、マジック! 我慢するんだ、マジック!
できる! 覇王なんだからできる!
私とシンちゃんの愛に乾杯。二人がずっとずっとラブラブできますように! 家族と一緒に幸せになりますように!
二人とも健康で長生きして、一秒でも長くラブラブできますように!
とりあえずは、シンちゃんが風邪をひきませんように!
そのためには。
「よし」
心の整理がついたマジックは、指を鳴らす。
作業を終えた秘書たちが、再び背後で整列した。約一名、例の津軽少年が、簡易コンロで湯を沸かしていた最中だったため、わたわたしている。ティラミスがその袖を引き、自分の背後に整列させた。
振り返らずに金髪の男は、厳かに告げる。
「次の作戦を始める」
すると、
「マジック様」
ティラミスが進み出て、発言することを求めたので、マジックは少し背後を顧み、『何だ』と許可を与えた。
夜が凪いだ。
忠実な部下は、上司に向かって口を開く。唇から漏れ出たのは、相も変わらずの抑揚のない声である。だが聞き取りやすい、澄んだ声だ。
「先刻、本部より運搬してきた御指定の品目リストをお渡ししたのですが、まだ御覧になってらっしゃらないようなので」
「……」
マジックとしてはそれどころではなく、考え事で頭が一杯だったので、渡された資料にはろくに目を通す暇がなかったのである。
しかし、よく見ていないことがわかったものだ。ティラミスは自分の作業をしていたはずなのに、同時にマジックの行動を逐一把握していたのである。おそるべし秘書、というところだ。
マジックがやるべき事を怠った――主にシンタローに一生懸命になっている時に頻発する――ことで、ティラミスは、決して上司を責めない。ただ淡々と事実を告げるのである。そしてそれは驚くほどに正確だった。
いつもマジックは、なんだか責められるよりも余計に気が咎めてしまうのである。
コホンと意味もなく咳払いをする上司に、明るい髪の色をした秘書は、丁寧に告げた。
「至急駆けつけよ、ということでしたので、揃わなかった品があるのです」
口頭での詳しい説明を受けて、マジックは思わず顔をしかめた。あまりのことに、愕然とする。握り締めた拳が震える。
「なにっ! マタタビがないだとっ!」
マジックの切ない声は、森を切り裂くように響き渡った。
ティラミスは、黙然と頭を下げる。
「申し訳ありません」
「ここはマタタビだろう! お約束としてマタタビで、シンちゃんがニャンニャンいうとこだろう!」
「残念ながら」
「くっ……ちょっと楽しみにしてたのに! マタタビに大喜びでメロメロになっちゃって、体をくねらせて身悶えるシンちゃんを期待してたのにっ!」
「マジック様、また欲望に負けてます」
ああ、とマジックは肩を落とした。
暗い絶望が彼を襲う。楽しみだったから、大事に後に取っておいたのである。ああ、マタタビ。夢のマタタビパラダイス。
メロメロシンちゃんの夢が! エロエロシンちゃんの夢がッ!!!
天は我を見放したか!
あのさぁ、いくら純愛至上主義に生きるって言ってもさぁ、ちょっとぐらいいいのに! ちょっとぐらいのエロスは純愛の調味料だろう!
それぐらいいいじゃん! 純愛でも、少しぐらい私に優しくたっていいじゃん!
そして彼をこんな失意に陥れたのは、なんと高松であるのだという。
マジックのこめかみが、ぴくぴく震えた。
おのれ高松、許すまじ!
「研究所付属の植物園または貯蔵庫に行けば、通常ならマタタビは容易に入手できるのですが……」
上司の連絡を受けて、秘書たちが急ぎ植物園に向かうと、その門前では高松が待ち構えていたのだという。
マジックは歯噛みした。自分が猫になったシンタローを保護しようとしていることを知っている高松であるから、マタタビを用意させることは、予測済みであったのだろう。そして文字通り、猫シンタローのシッポを捕まえて、彼の研究欲を満たしたいと考えているのであろう。
このマジックと高松の発想の類似性は、ちょっと変態がかった嗜好の持ち主同士だからじゃないですか、と、そこまでは有能秘書は言わなかった。
ただ、ドクター高松に気をつけるように、とマジック様が前もって仰っていましたので、とだけ言い、ティラミスは続けた。
よって、マタタビ入手は断念せざるをえなかったのです。
「高松め……お前たち、まさかヤツに、ここへ来る途中、後はつけられなかっただろうな。尾行や発信機は大丈夫か」
「その点に関しましては、用心を重ねております」
しかし。マジックは不安を感じる。なにしろ相手は海千山千の姑息なドクター、伊達に年は食ってない厄介な人種である。
あのマッドサイエンティスト。狙った獲物には、あらゆる手段を使って近付こうとする可能性も、なきにしもあらず。
クッ。私はやはり高松とも戦わねばならないのか!
どんどん戦うべき敵が増えていく! なんたることだ、これも宿命か。
「……」
溜息をついたマジックは、再び携帯を取り出し、ある人物に連絡を試みる。
数回のコールの後である。
とんでもなく明るい声が、鼓膜に飛び込んできたのは。
『わーい、おとーさま
そろそろお帰りですかぁ〜
』
彼の可愛い息子、グンマである。
きゃらきゃら笑いながら、電話を受けた。
なんだか張り詰めた精神状態の中で、癒されるものを感じて、ふっとマジックは頬を緩めた。
「ああ、グンちゃん」
だが。やや中性的な、男にしては高い声とは裏腹に、グンマの背後からは、ギギ、グギギギ、グガガガガ! といった不気味な機械音が響いてくる。なんだろう。また妙なロボットでも作っている最中だったのだろうか。
外見はファンシーなのに、結構、中身は強烈なことが多いんだよなあ、グンちゃんの作る機械って、実は、なんてマジックが考えていると、グンマが思い出したように、話しかけてきた。
『そうだそうだ、おとーさまっ! 丁度よかったぁ! おとーさまは、何に乗りたいですか』
「え?」
意表を突かれて、マジックは言葉に詰まる。
『あのですねえ、キンちゃんと相談して、おとーさまにも、水陸両用の乗り物を作ってあげようって言ってたんだよぉ
僕のアフリカ1号みたいな』
「……」
マジックは、グンマが普段使いにしている移動用ロボットを思い浮かべた。パオーン! と鳴く小ゾウの愛らしい姿。そしてそれにまたがって地を駆ける、20代も半ばを過ぎた息子の姿。いや、可愛いけれど。グンちゃんは似合うからいいんだけれどね!
あれを自分にも、せよというのか。
……。
ちょっとシュミレートしてみた結果、クラッときたマジックである。
『どの動物がいいですかぁ?』
しかも動物指定。仕方ない、もう一度シュミレーション。ん? 意外と似合うかも。さすが私。次の流行はこれでいこうか。
「うーん、私は上に乗るなら、192cmの黒猫がいいなあ……って! それどころじゃないんだよ、グンちゃん!」
マジックが声を大きくした瞬間、ゴオオオン……と、耳をつんざくような爆音が、電話の向こうから響いてきた。
『ゴホッ……ケホッ……』
「大丈夫かい、グンちゃん!」
瓦礫の崩れる音、粉塵の舞う鈍い音、金属が火花を飛び散らせる音。先程、不気味な機械音をたてていた物体が、弾け飛んだ気配を感じて、マジックは慌てて声をかけた。
しかしそんな物騒なメロディを背後にし、咳き込みながらグンマは、明るく返してくる。
『うん、大丈夫だよ
今のは小爆発だから、いつものこと!』
「小……? それにしては、いやに音が破壊的だったけれど……というかグンちゃん、今、家にいるのかい! まさかまた家を!」
『大丈夫だってばぁ〜。中爆発だと、屋根が飛んじゃうけどねっ! よかったぁ、小でぇ〜。これが大爆発だと、何が起こるかわからないパルプンテ効果が付属されてねえ、』
「いや、いい、いい! グンちゃんが大丈夫なら、あとは話さなくていい! 自分の末路は知りたくないから!」
とにかく。
携帯が通じる内に、話をつけなければいけないと、強く心に決めたマジックである。
「あー、グンちゃん。それがね。知っての通り、私は今夜、シンちゃんと待ち合わせして、食事したんだけれどね、ちょっとこっちでも事件が起こってね……」
そして本題に入ろうとしたのであるが、間髪入れずに、こう言われてしまった。
『ええ〜、まぁたシンちゃんと喧嘩したの、おとーさま』
「んもう。グンちゃんまでそんな誤解を!」
さすがに近しい者にまでこんな評価をされてしまえば、マジックとて、首をひねらざるをえないのである。
うーん。
そんなに私とシンちゃんって、喧嘩してるかなあ? イチャイチャじゃれあってるのが、勘違いされてるんだろうか。
まあ喧嘩はしてるよね。してる、してる。してるとしよう。
でも。でもでもでも!
マジックは携帯を握り締めた。
同じ数だけ、仲直りのラブラブもしてるんだもん!
あ〜、シンちゃんさえ恥ずかしがらなければ、全世界にこのことを叫びたい。映画化したい。ケーブルテレビでパパとシンちゃんのラブラブチャンネルを作りたい。ああ、シンちゃんさえ照れ屋さんじゃなければ! シンちゃんさえ、大胆だったなら、昨今の恋愛至上なメディア界で世界征服も夢ではな……。
『おとーさま? どぉーしたの?』
沈黙したマジックに、グンマが不思議そうな声を出した。
「や、ゴメンゴメン。ちょっと愛の世界展開の行く末について、考えてた」
『やだな〜、おとーさまったらぁ! 妄想もワールドワイドに侵略的なんだから
』
「ははは、面目ない
」
ついついグンマとは、ほのぼのとした会話モードに入ってしまうマジックであったが、いかんいかんと気を引き締める。
用件を告げなければ。
「グンちゃん。あのね。ちょっとお願いがあるんだよ」
「なぁに?」
おそらく電話口では、目をキラキラさせているのだろうグンマは、非常に頼み事をしやすそうな雰囲気を醸し出している。
だが表面はソフトでも内面はしっかりしていて、芯が強く、一度決めたことは貫き通すというのも、グンマの特徴であることは、マジックが重々承知していることである。
この辺り、彼の作るロボットたちと、似ていなくはないのかもしれない。ファンシー科学者。可愛くたって、脱いだらスゴいんです。
マジックは、さりげない風を装って言った。
「お願い。高松に、電話してくれないかなあ?」
『ヤです』
案の定、即答である。
「うーん、ダメかなあ。諸事情あって、こっちはとっても困ってるんだよ。グンちゃんが、ちょーっと電話してくれると、とても助かるんだけど」
『おとーさまの頼みだけれど、それだけはヤです。僕は、自分が高松に電話したいって思った時にだけ、電話したいから』
遅すぎる反抗期、という奴だと、マジックはおおよそのところは理解していた。幼少期から高松に頼り切っていたグンマは、南国の事件を経て、自立心に目覚め始め、依然なにかと世話を焼きたがる高松に対して、少し態度を変えているらしい。
これにキンタローも加わり、なにやら複雑なことになって、『もう何でも自分でできる』という二人と、『後になって、<お願い、高松!>とか言ったって無駄ですからねぇッ!』とばかりに、飛び出してしまった高松、という構図なのである。
勿論、反抗期というものは、特別な人間に対してしか起こりえないものであるから、あの科学者二人が、高松に対して抱える気持ちは、それはもう深いものであると推察される。おそらく二人は、高松に対し、特別な情愛を持っているのだろう。
このことを考えると、マジックの心は、ちくりと痛む。親であるマジック自身の手で育ててやれなかった、息子グンマと、そして24年を失っていた甥キンタロー。
この二人が高松に向ける気持ちは、いかばかりのものなのだろうか。
もっとも、過去にグンマにさりげなく事情を尋ねたところによると、高松が意地を張っているだけ、とのことだが。これは双方に言い分があるはずだ。
ともかくも、これは予想以上に手強いぞと、マジックは肩を竦めた。
らしくない険のある声で、グンマが聞いてくる。
『だいたい、高松に電話して、おとーさまは、僕に何を言わせたいの?』
「いや、かけてくれるだけでいいんだよ。高松が出たら、そのまま無音でも構わない」
『ええっ?』
これにはグンマは意外であったらしい。どうやら、高松と仲直りしなさいと言われるのだと思っていたようだ。
「それかワンギリでもいいから。それで高松の注意を引き付けることができるからね」
『ええ――っ! おとーさまったら、そんな迷惑電話推進派! かけ直してきた高松に高額請求してもいいの?』
「ただし、家以外の……そうだな、ちょっとそのアフリカ1号を飛ばしてもらって、人気のないロマンティックな場所やなんかで、ワンコールだけしてもらえると、ありがたいんだけれど」
不審がるグンマに、マジックは説明をした。
「ぶっちゃけた話をすると、高松のことだから、各地の基地局や交換局のホストコンピューターにハッキングして、携帯から、お前の居場所を把握するプログラムぐらい、事前に開発していると思う」
『うわぁ
おとーさま、たぶん正しい推測な所が怖いよ』
だから、グンマがたとえ1コールであったとしても、連絡をしてくれさえすれば、すわ何事かと、高松はきっとグンマの居場所を調べ、そこに駆けつけるだろう。高松の性格であれば、そうしないではいられないはずだ。
気になれば、追求しなくては気がすまないという性質が、彼がマッドサイエンティストたる由縁なのである。
そしてグンマの方は、どこか家以外の場所で電話をかけた後、すぐに携帯の電源を切って、また例のゾウロボットに乗って家に帰ってくればいいのである。直接会うのが無理なら、そうすればいい。
要は高松をおびき寄せるのが目的である。
ここまで一気に喋ったマジックは、さらに言い募った。
「とにかく私は、高松の足止めをしたいんだよ」
『……おとーさまが、そこまで僕に言うからには、なにか必要性があってのことだと思うんだけど……』
「そうなんだよ、頼む、グンちゃん! ねっ!」
少し黙ってしまったグンマであるが、空気が和らぐ気配がした。甘えるような声が聞こえた。
『だったら、おとーさま』
「ん? なんだい?」
ついついマジックも、優しい声を出してしまう。一気に喋ったので、喉が渇いた。豪華椅子にかけたままのマジックであったから、タイミングよくまた注がれた熱い紅茶で、喉を潤す。
しかしこの季節、いつまでも外気に触れているのは、寒い。シンタローばかりではなく、私まで風邪をひいてしまうのではないか。
……そういえば……秘書たちは、きちんと厚着をしてきたのだろうか……。
『ソニー、買ってほしいな
』
「ぶっ」
清純派ダンディにも関らず、マジックは思わず口に含んだ紅茶を噴出しそうになり、やっとのことで堪えた。
危ない、危ない。どこで見ているかもわからないファンの夢を壊してはいけない。ダンディはトイレ行かない。
「ソニーって! プレステとかじゃなくって? 会社ごとかい?」
『はーい」
うふふ、と笑って、彼の息子は可愛く『ダメェ?』と言った。おそらく電話の向こうでは、小首をかしげていることだろう。きっと上目遣い。
「ええっ! あれ、高いだろう」
『でもぉ、こんな時じゃないと、おねだりできないし〜』
「それに、あれはある意味、日本人の魂だから、勝手に買っちゃうと、反対運動とか起きるんじゃないかなあ……難しいなあ」
『じゃあ買っちゃわなくても、援助の見返りに技術提携だけでもとかっ。僕、いつか日本人技術者たちと、ドラえもん作るのが夢なんだよぉ! あの人たち、アトムの方が好きそうだけど……』
考え込むマジックに、せがむグンマである。
マジックは、ついに決意した。
「よし、わかった! 考えてみるよ! だから頼むよ、グンちゃん!」
『わーいわーい、やったぁ
交渉成立ぅ! オッケーです、おとーさま
』
ぴょんぴょん飛び跳ねる気配がして、やれやれとマジックは息をつく。
同時に、約束の履行が思いやられた。これはきっと、写真集を出すだけではいけないなあ。何か考えなくては。
『それじゃね、行ってきまーす! どこで電話かけようかなぁ、公園のベンチとか、そーいうステキなとこの方が、高松が来やすいからいいんだよねえ。うーん、まあ走りながら考えよっと! アフリカ1号〜 おいで〜
夜だけど、ちょっとお出かけしようね〜』
パオーン! と馴染みのある鳴き声が聞こえて、マジックは『じゃあ、よろしく』と携帯を切った。
ふう、と溜息をつく。急に静寂が、彼を包んだ。
少し疲れて、椅子の背凭れに身を任せる。目を瞑って、一人考えた。
――これも正しい推測であろうが、いくら秘書たちが尾行に気をつけたとしても、同じ理屈で、マジックの携帯電話から、高松に居場所はいずれ判明してしまう。ただグンマ等に比べれば、解析のための時間はかかるだろうが。
おびき寄せなどの小手先の技を弄しても、所詮は時間稼ぎにすぎない。
なんとしても限られた時間の中で、無事にシンタローをこの腕に抱きとめなければならないのだった。
マッドサイエンティストがこの場所に到着する前に!
シンタローが本格的に風邪をひく前に!
おもむろにマジックは立ち上がる。そして、カツンと踵を鳴らした。
整列したままの秘書たちの表情が、一斉に引き締まる。彼らは親子ホットラインの最中も、きちんと直立不動の姿勢をとっていたのであった。流石である。
マジックはそんな彼らの前で、くるりと背を翻し、優雅な仕草で、天を仰いだ。そしてグッと拳を握り締め、フッと下ろす。
部下たちを見渡し、よく通る声で、語りかけた。
「私の記憶が確かならば……」
いったん言葉を切り、余韻を持たせ、また朗々と歌い上げるように言う。
「縁起を担いで――、私とシンタローの純愛の思い出が込められた罠に、希望を託す」
バババッと手首を返し、耽美な表情を作って、マジックは正面に大仰に手を突き出した。
「さあ、存分に逃げるがいい、シンタロー! 私はそんなお前を捕まえてみせようじゃあないか!」
(チョコロマさん! マ、マジック様は、どーしちゃったんだっぺ!)
(あはは、短縮呼び? うーんと、津軽くんはちみっこだから、わかんないよネ。アレは、最近のマジック様がハマってらっしゃるケーブルの料理番組の影響)
「蘇るがいい! 私とシンちゃんの、アイアン・ラーブ!」
(どーもアメリカで人気になってるって、ご友人に教えてもらって、それ以来シンタロー総帥と一緒に見てるみたいだよ〜 総帥いなくなって、ちょっと寂しくなっちゃって、自然に思い出しちゃったんじゃないかな〜 そっと見守ろうよ)
(秘書の精神、勉強になりますっぺ!)
親切な人々が見つめる中、美食アカデミー主宰マジックは厳かに告げた。
「ア、レッ・キュイ、ジ――ヌッッ!(Allez cuisine!) つーぎの作戦はァ! 」
くっと背を折り、力を込めたマジックは、勢いをつけて今度は背を反らし、金髪を揺らして、正面を見据えて、言い切った。
「落とし――穴ッ!」
さて、マジックから細かな指示を受け、再び作業にかかる秘書たちである。
今度はちゃんと仕事を分担されたらしく、スコップを手にした津軽少年も嬉しそうである。さて、彼はコタローと同年だったかどうだったか、とマジックは頭の隅で思い、そろそろ紅茶は飽きたので、ほうじ茶を飲みながら、豪華椅子で大きく足を組んで作業を監視している。
しばらくして、足を組み替えた。首を右に動かし、左に動かしする。切ったばかりの爪の先を眺めてみる。
息を小さく吐き、うっすらと白くなっているではないかと気付いて、また溜息をつく。
「……」
忠実な部下たちの背中を眺めていたら。
ふと、さきほど脳裏に浮かんだことが、また気になりだしたマジックだ。
彼らが近くに来た際に、それとなく尋ねてみた。
「……お前たち、寒くないのか」
マジックの性状は基本的に支配体質、裏を返せば傍若無人、部下たちに要求するものは忠誠のみ、といったものであったので、特に彼が総帥である頃は、自らに付き従う者のことなど、さして思い遣ったことはない。
自分は自分、部下は部下であって、個人の体調管理など自己責任でやればいいのだから、上に立つ者が関心を持つに値することではないのだと、常々考えてきた。
だが引退後。自分は総帥を降りたにも関らず、変わらず仕えてくれる彼らを見ている内に、その傾向が、わずかにではあるが変化してきたのを自覚している。
身内はともかく、部下は使い捨てであった自分。与える命令を忠実にこなす者を、道具としての観点から高く評価し、それだけだった自分。
だが今は……愛着、のようなものを、彼らに覚えはじめているのだろうかと、思うことがあった。
そんな自分の変化に、マジックは驚きを覚えている。自分とはこんな男だったか。
部下たちは、所詮は他人であるのに。他人を私は信用しているのか。特別な感情を抱きはじめているのか。
むしろ少年時代に総帥となって以来、マジックの中で変質してしまった部分が、引退後は溶かされて、元に戻りはじめているのかもしれなかった。
なんにせよ、慣れないことだった。
マジックのいつにないぎこちなさには気付かない振りをしているのか、秘書たちは、背筋を正して答えた。
「ご心配なく」
ザッ! とティラミスが、軍服の腕をまくった。
ズッ! とチョコレートロマンスが、ズボンの裾をまくった。
もしもの時にも美青年のイメージを損なわないための、超薄型ババシャツ、極薄型ズボン下が、さりげなく姿を現す。
貼るホッカイロまでが、ひそやかに存在を主張している。
「入念に用意しております」
「ぬかりはありません!」
「……フン」
私としたことが。愚問だったようだ。
マジックはまた静かに茶をすすった。
「す、すばらしいっぺ! これぞプロフェッショナルだべ!」
もはやウルウルした憧れの瞳を、秘書たちに向けている津軽少年が、叫んでいる。
感激して腕をつかまれていたチョコレートロマンスが、照れくさそうに頭をかいている。
「急場で、津軽くんのは用意できなかったんだよね〜 ごめんね、寒かったよね。俺のホッカイロあげるよ〜」
「わ、は、雪国出身だがら、寒さには強いがら、大丈夫だっぺ」
「いいから、いいから」
すっかり先輩ぶっているチョコレートロマンスは、この小さな後輩に何かと世話を焼いているらしい。
食物連鎖上、あまり自分より下位の者には接したことがなかった彼であるためか、なんだかとてもイキイキしていた。ひどく嬉しそうである。
津軽少年の方も、テキパキ有能ではあるが無駄なお喋りは控えめなティラミスよりも、人当たりのいい彼の方が、話しかけやすいのであろう。
妙に楽しそうで、『規律が乱れている!』と咎める気にもなれず、マジックは仲良く作業に勤しむ彼らを眺めていた。和やかな人の輪。
ちょっとまた寂しくなって、ぽつりと思う。
それにしても……。
ああ、シンちゃんがマタタビに酔っ払うとこ、見たかったな……。
マジックが砕け散った夢の谷間に浸りかけた瞬間、テーブル上に置かれた携帯から、『アンアンアン♪』とグンマ用のメロディが流れ、メール着信を知る。
確認すると、『☆⌒v(*'-^*)ゞ・'゚☆任務完了』とあったから。
『(`L_´人)感謝☆彡ヾ(ω≦*三*≧ω)ノ☆彡オツカレSUMMER♪☆○o。..:*』と返信を済ませ、さて、と辺りを見回した時に、
「マジック様」
ティラミスが礼儀正しく、正面に小型モニターを差し出す。
「本部の科学班から連絡がありました。解析終了、ドクター高松の位置測定が可能になったそうです。データを転送します」
「そうか」
こちらも先手を打って、携帯による高松の居場所特定を、進めさせていたのである。
モニターの画面に、暗緑色の座標軸が映し出される。
「赤い印が我々のいる位置、そしてこちらの光点がドクターの位置です。最近一時間の軌跡を御覧にいれます」
「……ッ!」
高松の移動過程を見て、マジックは身を乗り出した。
光点は本部を出ると、チチチチ……とかなりの速度で、こちらへと接近している。予想外の早さで、相手はマジックの居場所を特定したらしい。
チカチカ点滅する光点は、ぐんぐんと赤い印に接近して――そしてもはや数センチ、実際の距離では数キロかという距離まで近付いて、あわや、というところで、ピタリと止まる。
そして、くるりと反転し、再び本部の方へと戻り始めたのである。
「危ないところだった……」
マジックは、額の汗を拭った。どうやら高松はグンマの方に興味を引かれ、思惑通りに誘き寄せられてくれたらしい。
よくやってくれた、グンちゃん。数分遅くてもダメだったかもしれないよ。
足止め、成功である。
作業の方も、あらかた終了したらしい。
続いてティラミスが、モニターに代えて、書類を差し出す。
「落とし穴を設置した場所の見取り図です」
「うむ」
監視されているという気配はなかったが、さっきのこともあるので、マジックは今度はきちんと目を通す。
落とし穴は、自分が秘書たちに指示した通りに、森に満遍なく配置されており、過不足ないと判断する。
後は、シンタローがこの罠にかかってくれるか、なのだが……。
金髪を揺らし、憂いを帯びた青い目でマジックが、暗い森の奥に視線をやった時である。
「マジック様――ッ!!!」
チョコレートロマンスが走ってくる姿が見えた。
息せき切っている。
「設置した暗視赤外線カメラが、シンタロー総帥の姿をとらえました!」
「なにィッ!」
マジックは、立ち上がった。