総帥猫科
青ざめた月に照らされた、人の気のない高級住宅街は、夜の砂漠を行くような静けさがある。
砂漠の砂は、万物を眠りに誘う夢の粉。冷たい砂塵の中を、黒塗りの軍用車が走る。
オアシスの水面に落ちる滴の音さえ聞こえてきそうな、人工物の織りなす砂丘の狭間を、すべり抜ける。
「……やれやれ」
車中でマジックがついた溜息は、穏やかなエンジン音に溶けていった。
彼はそっと首を傾け、右隣にいるシンタローの様子を見遣る。先ほどから大人しく前足をなめていたシンタローが、また、がさごそと動き始めたからだ。長く黒いシッポが、しゅるんと揺れた。
「シンちゃん。どうしたんだい」
「……ンナッ」
何を思ったかシンタローは、いきなり、とん、とシートから降りた。マジックの足元近くに四つ脚で立つ。そして頭を下げ、マジックの靴を猫足でぺんぺんと叩いている。
つられて自分の靴を見たマジックは、ああ、泥で汚れているな、と思った。私らしくもない。磨き上げた革が台無しだ。
思えば、森でのシンタロー捕獲の悪戦苦闘により、マジックもシンタローも二人共に泥だらけであった。泥ならまだいいが、他の色んな汚れまでついていそうであるから、始末が悪い。その上、マジックなどは傷だらけ。それもこれも、シンタロー捕獲の勲章である。
――大変だったなあ。
こうして落ち着いてみれば、深い溜息も出ようというものである。
「ふう……って、シンちゃん!」
想いに浸っていたマジックは、思わず足を浮かした。
いつの間にかシンタローが、マジックの両足とシートの間、四角く空いたわずかなスペースに頭を突っ込んでいるのである。マジックの膝裏に、シンタローの後頭部がぐいぐい押し付けられている。
どうやらそこを通り抜けようとしているらしい。
いくら大型の軍用車、その後部座席とはいえ、マジックもシンタローも勿論大柄であるから、そんなに自由になる空間がある訳ではない。しかも脚の下。
かなり無理矢理である。
「うわ、シンちゃん。どこ通ろうとしてるんだい」
「ニャア」
どうせ通るなら、体をずらしてマジックを避けて通ればいいのに、シンタローはなぜかマジックの脚の下に執着しているようだ。どうしてもそこを抜けたいらしい。猫の考えることはわからない。
「ンナッ! ンナ――!」
狭い空間は、ぎゅうぎゅうだ。シンタローは一生懸命に肩をすぼめ、背筋を伸ばし、尻を低くしシッポをふりふりさせて、必死にマジックの脚下を潜ろうとしているのだ。
「なんだい、こっちに行きたいのかい」
マジックが、ひょいと足を大きく浮かして、足のトンネルを崩すと、
「ンニャッ! フ――ウッ!」
途端に顔を上げたシンタローが、怒りに燃える瞳で睨みつけてきた。単に場所を移動したいのではなく、足のトンネルを潜り抜けるという苦難を越えるのが、お望みのようである。
「はいはい、こうかい。こうでいい?」
「ニャッ」
元の通りにマジックが両足を下ろすと、シンタローは『それでよし』と肯定するようにまた頭を低く下げ、再びマジックの足とシートの狭間を、通ろうとし始めた。
「……なんとも微妙な気持ちだが」
膝の裏側あたりが、猫の身体と擦れて、むずむずする。
マジックはこっそりと苦笑しながら、シンタローを盗み見る。あまり直視すると、また怒られそうだったからだ。そしてこう思う。
よかった、私の足が長くって。シンちゃんのご希望に添えるくらいの長い足です。ふう、助かった。恋人っていうか恋猫の願望に答えることができてよかった。
マジックがそんなアホな安堵をしている間に、膝の下を、猫耳が生えた頭が抜ける。長い黒髪が抜け、しなる背中が抜け、腰が抜け、尻と一緒にシッポも抜けて、ずぼっと身体が潜り抜けた。
「おっと」
抜けた勢いで、マジックの体までが大きく揺れ、サイドボードに置いたグラスの水面が、ちゃぷんと音を立てた。
マジックの右隣から左隣へ、やっとのことで向こう側に出たシンタローは、黒い頭を振ると、
「ニャフ〜
」
と満足そうな笑顔をみせた。一仕事終えた後の笑顔だ。得意そうに猫耳の先が、ピクッピクッと動いた。
マジックの左隣、今度はそこで落ち着くのかと思いきや、窓に鼻を押し付けながら外を見て、不満そうに『ナーウ』と鳴いた。
くるりと振り向く。マジックと目が合う。
再びシートから降りてしまったシンタローは、今度は逆側から、マジックの足のトンネルを潜り抜けようとし始めた。
ぐいぐいと同じように、マジックの両脚とシートの間に頭を突っ込み、体を傾げ、狭い空間を抜けようとしている。
「ニャウ! ニャウッ!」
体がつっかえる度に、じれったそうにしなるシッポを見ていたら、ちょっと変な気分になってくるマジックである。
自分の脚の下で、ごそごそと動くシンタローの身体。その感触が、妙に生々しく伝わってくるのである。
……いけない、いけない。
そうこうしている内に、またまた『ずぼっ』と勢いよく、シンタローがマジックの脚トンネルを潜り抜けてしまった。
そして元通りの右隣のシートで、しきりに動き、落ち着き場所を探しているようだ。
――なんだか、可愛いなあ。
猫の挙動に、心がぽわぽわしてくるマジックである。
「シンちゃん。ここ。ここにおいで」
マジックが自分の膝上を、ぽんぽん叩いて手招きすると、シンタローは『……』と軽蔑したようなまなざしを向けてきた。
それから面白くもなさそうな顔で、フン、と鼻を鳴らした。お気に召さなかったようである。気位の高い猫だ。
どうして俺様が、アンタなんかの膝に乗らねばならないのだとでも言いたげな黒瞳。
マジックにしてみれば、膝下なんかより、膝上の方がずっといいだろうと思うのだが、猫としてはそんな気分ではないらしい。
目をぱちぱちとしばたいたシンタローは、もう一度、フン、と鼻を鳴らすと、そっぽを向いて虚空を見つめた。車の天井の何もないところを注視している。
しばらくそうしているのかと思いながら、マジックが見ていると、次第に、うつらうつらし始めたようである。
猫の寝入りはとても早い。あっという間に、頭が、かくん、かくんと揺れる。
「クーア」
あくびをしたかと思えば、体をもぞもぞと動かし、丸くなって目をつむってしまった。
しばらく静寂が続く。シンタローは眠ってしまったようだ。
「……」
マジックはシンタローの頭を撫でてやりたい衝動に駆られたが、我慢した。
眠りといってもごく浅いもので、一時休息といったところか。なにしろ人間として仕事――しかもシンタローは短期とはいえ、今日まで遠征に出ていたのである――をこなした後に、猫となって森で遊びまわっていたのである。
さすがに疲れているのだろう。マジックは心の中で語りかける。
シンちゃん。頑張ったね。いつもありがとう。
シンタローをいとおしく想いつつ、同時にマジックは、自らを戒める。
だが――今の私には、これからやらねばならないことがある。いかにシンタローが嫌がろうとも、やりきらねばならないことがある。その覚悟はできているのか。私。さあ、私。
安心して眠っている黒猫の様子を注意深く確認しながら、マジックは周囲の状況を見定める。
すでに車は、自宅近くまで来ていた。
「……今日はご苦労だったな」
突然、マジックから声をかけられて、運転手の背中が飛び上がる。背中は緊張気味で返事をした。
「は、はい……!」
「フン」
フロントガラスの向こうで、ヘッドライトが光の波を寄せている。馴染みのある道の形が浮かび上がっている。
すでに自宅の敷地内、私有道に入っているのだ。緑の木々がライトのかたちに切り取られ、千切れて背後へと消えていく。
またマジックは横目でそっとシンタローの様子を窺った。黒猫に変化はなく、相変わらずかすかな寝息が漏れている。閉じた目の縁の睫が、時々揺れている。
呼吸と共に上下している軍服からのぞく、ワイシャツの襟が汚れていた。
ほんとにもう、シンちゃんったら。
マジックは懐古の情に囚われる。泥だらけになるまで遊ぶなんて。シンちゃんの小さい頃を思い出すなあ……。
眠りながらも、シンタローの猫耳は、マジックがたてる物音に反応し、ぴくりぴくりと動いていた。無意識のうちに集音しているのだ。
気をつけなくてはなるまい。これから自分がやることを、直前までは感づかれてはいけない。
猫耳の動きを見定めながら、今度はマジックは運転手に向かって、低い声で命じた。
「車は止めるな。そのままの速度で」
ここで声をいっそう潜める。
「通り過ぎろ」
「……はっ!」
シンタローの猫耳はこの会話にも反応し、耳が横を向いたが、さして重要な情報だと脳が判断しなかったのか、聞き取れなかったのか。
また元通りに耳は正面を向き、穏やかな寝息が聞こえてきた。
「……」
よし。マジックは足を組み直し、タイミングを見定める。
もうすぐ自宅玄関である。通常であればここで車を止めるのであるが、そうすればシンタローは家に着いたことにすぐに気付くであろう。
すでにマジックは、普通に玄関から帰宅した場合の、シンタローを部屋に連れ帰るまでの一連の出来事をシュミレーションしていたのである。
黒猫を車から降ろし、そのまま玄関から入って部屋に連れ帰るとすると、どのルートを辿っても、多大な労力を必要とすることは目に見えていた。
暴れるか。悪くすれば広い家中を走り回られたり、あちこちを遊び回られたりしたら、また森での出来事の二の舞なのである。これまでの苦労が水の泡だ。
それならば。
――今こそ。
幼かったシンタローが成長し、マジックを超えてあまりにもしっかりしすぎてしまったので、封印されぎみであったマジックの『自立心』が、今、帳を上げて復活しようとしていた。
ちなみにこれはマジックの自己評価である。なにしろ二人でいる時は、自分がシンタローにニャンニャン依存したいのが、マジックを形作る男心であった。
考えてみれば、いつもはむしろ私が猫だった(猫の目のように都合よく変わるマジックの自己認識)。
シンタローのお膝に乗って、お昼寝する隙を始終狙っているのが私であった。
言っておこう、シンちゃんに撫で撫でされたいと、24時間望んでいるのが、私である! 色んな場所を撫で撫でされたい! あそことか、こことかを、撫でられたい! いや、詳しい説明は趣旨が違うので今は省こう!
しかーし! 今夜の私は、一味違――う!
ははは、見ていなさい、シンタロー! 私の甲斐性を今こそ見せよう! 見せいでか!
時は今。軍用車は速度を落とさないままに、正面玄関を通り過ぎ、ファサードに沿って走っている。
マジックは厳かに口を開いた。
「シンタロー」
名前を呼ばれて、猫耳が大きく動いた。だがまだ顔は上げない。猫は浅い眠りの中にいる。
「クックック……」
マジックの薄い唇から、こらえきれない笑いが漏れ始めてから、はじめて異変を感じ取ったのか、シンタローが不思議そうに顔を上げた。ちらりとマジックの方を見る。
目が合ったところで、マジックはシンタローへと通告した。
「そろそろ、私の本気を見せようか」
「……ニャッ、ニャー……?」
マジックから醸し出される黒い波動を感じ取ったのか、シンタローが目を丸くした。肩が、びくっと震えた。跳ね起き、慌てて身を引く。
「ははは……はははははは!」
「ニャァッ……?」
何事が起こったのか、と。警戒と怯えの入り混じった目をしたシンタローは、じりじりとシートの縁に後退していく。それを追いつめる形で、マジックが迫る。
手を伸ばす。シンタローが引く。
恐怖心からか、シンタローのシッポは、体にピッタリと巻きついている。その様が逆にマジックの嗜虐心を煽った。
マジックは高らかに笑った。
「はっはっは、私の仔猫ちゃん、そろそろ観念する時がやってきたようだな!」
「ニャッ、ニャゥ、フニャァァッ……!」
「シンタロー、覚悟したまえ!」
マジックの大きな手が、がしっとシンタローの両肩を捕らえる。ぐっと引き寄せ、突然のことに萎縮したままの猫を抱き上げてから、手を伸ばし、天井のスイッチを押す。
車の屋根中央のスチールパネルが重々しく両端に開き、夜空が見えた。冷気が肌を刺す。ちょっとしたオープンカー状態だ。マジックを乗せる車には、この程度の機能はついていて当たり前なのである。
腕にシンタローをお姫様抱っこして、シートに立ち上がったマジックの目に、我が家の姿が映り込む。重厚な面持ちを湛えた洋館。
「さあ、行こう!」
狙いを定めると、マジックは右手から、地面に向かって眼魔砲を放った。轟音。割れる地面。反動。
ジェット噴射の要領で、マジックとシンタローの体が、宙に浮いた。走り去る車上から離れて、虚空へと舞い上がる。
「ニャニャ――ッ!!!」
抱っこされていたシンタローが、慌ててマジックの胸にしがみついた。
一人と一匹の猫が、夜を飛ぶ。
流れる黒髪、輝く金髪。
光の筋を描いて、ひとっ跳びだ。大きな満月を背に、玄関と広い邸内を通り抜ける手間を省き、一直線に目的の場所へと向かう。
さながらマジックの姿は、厳重な警戒態勢の中から、恋人を盗み出した怪盗紳士のようだった。大事に腕に抱えた黒猫は、絶対に落とさない。なんとしてでも連れ帰る。
光の軌跡が行き着く先は決まっている。なだらかな屋根に美しい尖塔の立つ一角、マジックの私室、そこに付属している――バスルーム。
恋の直行便である。
空を飛びながら、男は楽しげに腕の中の恋猫に向かって囁いた。
「さあ、シンタロー! 一緒に入ろう、お風呂に!」
そして黒猫の悲鳴が、月夜を切り裂くのである。
「ニャギャァァァ――――――――――!!!」
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衝撃音が聞こえて、家の輪郭が揺れた。研究室併設の洗面所にいたグンマは、あれは前庭の方だ、と思う。
聞き慣れたガンマ砲の音である。誰が打ったものかは、家族であるから、すでに足音と同じように聞き分けられるようになってしまっているのが、いいことなのか、悪いことなのか。
グンマは歯ブラシをくわえながら考える。
――おとーさまたち、帰ってきたのかな。
そろそろ寝ようかと思っていた頃である。すでに夜は遅い。今日も目一杯働いた。仕事をひけてからは趣味のロボット製作に勤しんでいたため、肩の筋肉がかちかちだ。
さっきは、おとーさまに呼び出されて、色々あったし、と。
グンマは首をぐるりと回しながら、洗面所の窓を開けた。夜の世界が目の前に広がる。
するといきなり視界に、人影の姿が飛び込んできた。影はみるみるうちに大きくなり、こちらに近づいてくる。
飛んできた。本来ならそこにいるはずもない空中にいたのだから、飛んできた、で間違いはないだろう。まさにグンマが今この瞬間、思い返していた人間。
満月を背景にして飛んできた男と、グンマの目が、ばっちりと合った。彼が、思いもよらない場所に突然現れることは、よくあることである。今さら不思議にも感じない。
実の息子としては、もう慣れてしまった。
グンマは手を振った。
「あっ、おとーさま。お帰りなさ〜い」
満月の光を浴びた男は、大きく弧を描いて空中を飛びながら、左手を小さく上げて挨拶をしてくる。
「はっは。ただいま、グンちゃん!」
男の右腕には、もう一つの影が抱えられている。しかしその影には……。
グンマは、ごしごしと目をこすった。
「あれー?」
すぐにマジックの姿は見えなくなった。グンマのいる研究室付属の洗面所の上を越えて、さらに飛んでいってしまったのである。おそらく階上の、マジックの自室へと直行したのだろうとグンマは冷静に推測した。
ガッシャーン! と今度は派手な破壊音が聞こえたのは、窓が割れた音だろう。何も大ジャンプして窓からじゃなくても、普通に玄関から家に入ればいいのに、と最初にグンマの頭は常識的なことを考えたが、その常識の上を覆うのは、さらに大きな疑問符である。
「ん〜」
グンマはたった今、目撃した光景を反芻している。手は小刻みに歯ブラシを動かしながら、だ。
マジックと二人で、今晩は食事に行って一緒にいるはずだから、あの抱きかかえられていた影は確かに彼なのだろうと思う。でも。何か生えてた。気がする。何か。
「……シンちゃん……?」
そうグンマが呟いた瞬間、今度は側の部屋から破壊音が響き渡る。爆風が洗面所にまで飛び込んできて、グンマの長い金髪が跳ねた。同時に嘆き声が聞こえてくる。
「ッ! また、まただ……ッ! 畜生!」
うーんと、今のは小爆発かぁ。キンちゃん、また失敗したんだ、調子悪いなあ、とグンマは動じず、口をもごもごさせながら考える。キンタローは一旦スランプに陥ると、復活するまでが長いのである。
なにげにフォローが大変。
今日は僕が小爆発5回、中爆発1回。キンちゃんが小爆発4回で中爆発2回。中爆発は小爆発2回分と計算すると、今日は僕の勝ちだなぁ。明日は何かおいしいものでもおごってもらおうっと。
そんなことを考えながら、ぱたんと窓を閉める。グンマは再びシンクに向かうと、口をゆすぎ、うがいをした。歯ブラシを洗って自分専用のコップに立てかけてから、ふう、と息をつく。
鏡に映る自分の姿を眺める。うん、いつもの僕だ。グンマは口角を上げて、笑顔を作ってみた。次に今度は逆に口角を下げて、悲しい顔を作ってみる。それから鏡をまともに見据えて、きりっとした顔。逆に力を抜いて、情けない顔。最後に普通の顔で、肩をすくめた。
うん、やっぱり、いつもの僕だ。
いつの間にか『パオーン
』という甘え声がしていて、足元を見るとアフリカ1号が、もぞもぞと擦り寄ってきていた。
その頭を撫でてやりながら、さてと、とグンマは思う。
青の一族であるということは。普通に生活するだけで、あっちもこっちも大騒動。大変なのである。
困ったことばかりで、なぜだろう、僕が面倒みてあげなくっちゃ、という気持ちになる。
これまでのグンマは、むしろ面倒を見られる方だったのだが、最近は甲斐性に目覚めてしまい、これはこれでいいか、と思うのである。頼られるのも頼るのも、どっちも僕だから。
今は楽しい家族ができて、嬉しい。あとはコタローちゃんをあたたかく迎えることができたらいいな。
鏡を離れると、グンマは研究室に戻る。後ろから小象がトコトコとついてくる。それから大切な家族の一人に向かって、声をかけた。
「キンちゃん、今度はどうしたの?」
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こちらは満月をバックに従え、夜の空を飛んだ男の方である。
狙い通りに窓脇の屋根に着地したのだが、つい勢いあまって、たたらを踏み、廊下の大窓をぶち破ってしまったマジックであった。
もちろん咄嗟に身体をひねって、ちゃんと背中からガラスに突っ込んだので、抱えている黒猫は無事だ。
だが激しい音が木霊した。割れたガラスが破片となって飛び散り、星のように輝いた。
「おっと。しまった」
「フギャギャギャギャ――ッ!」
黒猫のシッポはポンポンに膨れ上がり、悲鳴と合わせて、このダイナミックな扱いに抗議している。
気にせずマジックは、ガラスの粉が撒き散らされた廊下に着地し直すと、シンタローを小脇に抱え直し、素晴らしい速度で眼前の自室に走り込んだ。
そしてこれまた神速で部屋を突き進み、洗面所を通って併設のバスルームの扉を開ける。わずか数秒間の出来事である。
この場合、行動にはスピードが命なのだ。ゆっくりしていたら、自宅に入るために、玄関ではなくわざわざ窓から飛び込んだ意味がない。
シンタローの意表を突いて、思考が停止している間に、コトを全部すませてしまうのが、マジックの狙いである。
ひんやりとした浴室の空気と、香料の優しい匂いが二人を包む。穏やかな照明が薄い影を作っている。
一階にある家族共用の広い浴室と比べれば、マジックの部屋付きのそれは少々手狭ではあるが、それでも男二人が入ってもいくらか余裕があるように設計されていた。淡いパール色の大理石が美しく張り巡らされ、清潔感を漂わせている。
採光性と通気性のために、壁の一部がガラスブロックになっている。今はそこから、夜の空と満月が顔を見せていた。壁面の大きな鏡が光を反射し、静かにきらめいている。
マジックはすたすたとバスタブに歩み寄り、勢いよく蛇口をひねって熱い湯を出す。ついでにシャワーからも湯を迸らせると、みるみるうちに浴室はあたたかな白い蒸気に満たされていった。
よし、まずは浴室を暖めておいて、と。さあ、厄介な作業の始まりだ。
マジックは返す足で脱衣場を兼ねている洗面所に戻ると、バタバタと四肢でもがいているシンタローを床に下ろした。
「ニャウッ!」
はいつくばって、往生際悪く逃げ出そうとするシンタローの軍服を、脱がせにかかる。
青と白のモザイクタイルの上で、黒猫のシッポがうねった。猫足の爪が、かつんかつんと音を立てる。
「ああもう! いい加減に観念しなさい」
シンタローを押さえつけ、その背中の上に馬乗りになったマジックは、背後から総帥服のベルトをはずそうとした。
「ウニャ――ッ!!!」
「はいはい、あきらめようね」
それでも不屈の猫は、暴れるのをやめない。長い黒髪が乱れて、泥がついた襟がよく見える。
綺麗好きの猫は、先ほどからしきりに自分の体をなめていたのだが、勿論それしきのことで汚れが落ちるはずもないし、背後まで舌が届くはずもない。
ふと、シンタローのうなじから立ち上る馴染んだ匂いが、マジックの鼻腔をかすめた。いつもより多くの汗をかいたのか、健康的な汗の香が、暴れるシンタローからは漂ってくる。
「……ッ」
マジックは一瞬、陶然とした。この匂いは、彼が愛してやまないものであったからである。喧騒の中で、思わず溜息をつく。
ああ、シンちゃん。お前の体臭は、真紅の薔薇も青ざめる愛のしずく、私の本能直球フレグランス、ソワレの帝王も骨抜きさ。これがいい。最高のアロマテラピーだね。
しかし、うっとりしたのも束の間。次の瞬間、マジックは眉をしかめた。
「んっ? 何か違う匂いが」
シンタロー検定の最上級ソムリエ資格を持つマジックは、ある異変を感じ取った。嗅ぎ慣れた匂いに、別のものが混じっているのだ。
総帥服の襟元に鼻を寄せて、くんくん嗅ぐ。やはり、よからぬ臭いが鼻をつく。この臭いは……。
「あっ、シンちゃん、さっきレストラン裏のゴミ箱あさったでしょ! 生ゴミの臭いがする!」
「シャ――――ッ!!!」
「くんくん。あっ、なにこのシミは! どこでつけてきたの!」
「ニャ――――――オッッ!!!」
襟どころか、あちこち汚れまくりの軍服。
マジックは先刻の森での記憶をたぐりよせる。ああ、考えてみれば。シンちゃんは魚の骨を大事に埋めていたっけ。シンタローは生ゴミどころか巨大ヘビをくわえてきたりと、生ぐさい御活躍が多かったのであった。
そういえばマジックは、さっきキスした時に、甘い味の隅っこで、ちょっと微妙な味を感じていたのである。しかしそんな些細なことは、愛という名の麻薬の前では消し飛んでしまっていたのだが。
いけない、ぐずぐずしている暇はない、これは早く風呂に入れないと、と。マジックは新たに決意を固めた。
「ほら! さっさと脱ぐ!」
「ニャフッ! カフッ!」
だが上手くいかない。脱がされることを阻止しようとしてシンタローがくりだしてくる、強烈な猫パンチをかわすことから始めなければならないからだ。さっきお願いした通りに、爪を出さないようにしてくれるのは、ありがたいのだけれど。
ぶんぶんと肉球がマジックの頬をかすめ、鼻先を横切る。かなり厄介なことには変わりない。
それでも強引にシンタローの腹に手を伸ばしたマジックは、軍服のベルトを外そうと躍起になった。シンタローは阻止しようと身体を丸くする。そうかと思えば、仰向けになって猫キックも交えてきた。これは強敵だ。
「ニャア! ニャアア!」
カチャカチャとバックルと格闘するが、暴れるシンタローのせいで、指が滑る。
やれやれ。いつもの私だったら、0.1秒ではずせるのに。それもシンちゃんとキスしながら、手探りでね。
脱がせると怒る癖に、脱がせないともっと怒るというシンタロー特有のアンビヴァレントの中で、マジックの脱がせ技術は非常なレベルにまで向上していたはずだった。しかしこんな場面では、逆にそれが不利に働く。慣れが邪魔をするのである。
思わずマジックの心の声が、外に漏れてしまう。
「うーん、普段はむしろ見ないでボタンをはずすから、逆に正面からはずそうとすると難しいなあ。シンちゃん脱がし検定十段の私なのに」
「ニャ――ッ!」
「はいはい。ごめん、ごめん」
猫をいなしながら、やっとのことでマジックは、黒革のベルトを引き抜くことができた。しゅるっと音を立てて、シンタローの腰からベルトが抜ける。まるで和服の帯を抜いて、『あ〜れ〜』なプレイをしているのだと錯覚しそうになるマジックである。
いやいや。いかん、いかん。私、頑張れ。理性ファイトだ。
よし、次はこっちだと、マジックはシンタローの軍服に手をかけ、前ボタンをはずそうとしたが、やっぱり猫が暴れるので上手く行かない。暴れ猫。長いシッポが唸る。
ベルトのバックル以上に、ボタンが外しにくい。軍服の生地が頑丈にできているためだ。
しかも抵抗は続いている。シンタローは猫足を折り曲げては、びよーんと伸ばし、必死にマジックにアタックを繰り返す。
「ウニャニャニャッ! ウナウナ――ウッ!!!」
「ああもう! はずすのやめた!」
じれたマジックは、両手の指を、シンタローの赤い軍服の合わせ目に突っ込んだ。そして無造作に両側に開く。
ブチブチッと糸の切れる音がしてボタンが弾け跳ぶ。ボタンはかつんかつんと跳ねて、床を転がっていった。赤い軍服があっけなく開く。
「フギャ――ッ!」
騒ぐ猫にはお構いなしのマジックは、続いて白いワイシャツも同じように荒っぽくボタンを引きちぎる。すると今度は、シンタローの胸板が露になった。
桜色の二つの飾りまでが目に入る。
「あ」
「ニャ――ッ! ニャッニャッニャッ! フゥ――――――!!!」
シンタローのはだけた胸元を見ると、条件反射的にエロい気分になってしまったマジックである。
「えーと」
ワイシャツの両端を開いたまま、襟を両手に持ちながら、マジックは声に詰まる。彼は葛藤していた。
ヤバい。なんだかSな気分になってきた。こういうの大好きだから。服を乱暴に破ったりしちゃうの大好き。『無理矢理』って私のキーワードだから。掛け軸に大書して、床の間に飾りたいぐらいだから。私の中の検索ランキングでも常に上位に位置している言葉。
ああ。マズい。スイッチが入ってしまう。
「……くっ……」
しかし今日のマジックは、いつものマジックではなかった。使命感を抱いているのだった。欲望に打ち勝ち、己に負けず、立派にシンタローを寝かしつけるというのが、今夜の彼が、神から与えられた試練なのである。
ちょっと待って。この試練って、究極的に難しいよと、マジックは本日∞度目かの悲痛の訴えを心中で呟き、自らを叱咤する。
うん。うん。頑張れ。やるしかないんだ。飛んでけ、108つの煩悩! 除夜の鐘を打ち鳴らせ! 機械的にやるしかない! 鋼の心を持て、マジック!
耐えろ! そして真実の愛を掴み取れ!
「ええい、今度は下だ、大人しくしてなさい!」
なんとマジックは、強靭な意志の力で、シンタローの裸の胸から目をそむけることに成功したのである。
神は彼に祝福を与えたのだ。天使のラッパが鳴り響く奇跡の事態である。
彼は軍服とワイシャツを一緒にシンタローの両腕から強引に引き抜くと、籠にぽいっと放ってから。
半ばやけくそ気味に、今度は猫のズボンのチャックを光速で開け、裾を掴むと、ぐいっと逆さに持ち上げた。
「ニャッ! ニャフッ! アフッ!」
下半身が持ち上がって、足掻く猫。逆さまになる。
こんな作業は考えるよりも、手早くやるに限る。すっぽりとシンタローの足が抜ける。猫だけに、長いシッポがなかなか抜けずに苦労したが、それも数秒だった。あっという間に黒猫はパンツ一枚の姿である。
だん! とシンタローの剥き出しの膝が脱衣所の床を打ち、身ぐるみ剥がれたシンタローの頬が、羞恥で赤く染まる。これまで以上に、わたわたと慌て、無意味に四つ足をバタバタさせて逃げ出そうとするが、マジックの手で背中をがっしりと押さえつけられているので上手くいかない。
籠に脱がしたズボンを投げ入れたマジックは、あとは下着だ、と気合を入れて、猫を見下ろして。
そして驚いた。
これは……これはこれはこれはッ!
カッ! とマジックの両眼が見開かれ、秘石眼から青い光が弾け飛んだ。光の中に投影されるのは、思い出という甘い記憶。
マジックの目を吸い付けたのは、シンタローが着用していたパンツであった。
森で格闘していた先刻の時点で、こんなに綺麗にシッポがお尻から出ることからして、『もしかしてシンタローのパンツは、面積の小さいものではないのか』と理論的に推測していたマジックである。
『今日のシンタローのパンツ』は、マジックの最大の関心事の一つであった。勿論毎日のシンタローの下着は、マジックは把握しているのが常であったが、今日はシンタローが遠征先から来たため、ミステリーのままであったのである。その謎が今、やっと判明した。
マジックの予想は正しかった。実物を前にして、マジックの秘石眼が感動で光を撒き散らす。
これは……あの日あの時あの場所で、私がシンちゃんにプレゼントした、愛のこもったマイクロビキニ!
なんとシンタローは、面積の小さいパンツを履いていたのである。いわゆる極小下着。黒のマイクロビキニ。そのお尻のTバック部分から、黒いシッポが生えていた。
シンタローはトランクス派で、なかなかこんな大胆なモノは履いてはくれないのに。
マジックには何かと記念日を作ってはシンタローにプレゼントする習慣があったが、これは確か『はじめてシンちゃんが○○○をしてくれた記念日』に贈ったものであると記憶が教えてくれた。○○○が何かは、内緒である。かなりエッチなことである。
マジックは思った。
これは、あのプレゼントした中では、一番地味なやつだけど。横ヒモのマイクロビキニ。浅履きの黒。シンプルだけど、それだけにグッとくるセクシーランジェリー。
ヴァイオリンのソナタが流れる、今夜みたいな選りすぐりのロマンティックなレストランで、百万ドルの夜景を見ながらプレゼントした品の内の一枚。
『チッ、あんだよプレゼントって。こんなのしねえでいーのに』なんて言いながら、まんざらでもない様子で、リボンを解いて包装を開けた時のシンちゃんの顔、可愛かったなあ。最初は目を丸くして、それからすぐに真っ赤になっちゃってね。
テーブルをばんばん叩いて、怒鳴ってたっけ。飲みかけのワイングラスが倒れてた。
『コレを俺に履けっつうのか!』
『うん
』
『いい加減にしろ――!!!』
『シンちゃん、大声。目立ってる。みんな見てるヨ。わー、ガンマ団総帥が右手にパンツひらひらさせて怒ってるーって』
『くっ、ううっ……!』
とりあえず私は、そんなシンちゃんの可愛い様子が見られたので、満足だったんだ。
あの夜のシンちゃん、超怒ってたのに! 帰り道でも『こんなの捨ててやる!』とか、ぶつぶつ言ってたのに!
実は捨てないで、ちゃんと取っておいてて、履いてくれたんだ。しかも久しぶりの私との夜デートの時に。勝負下着?に使ってくれたんだ。
ああ、シンちゃん……。お前って子は。おお、パンツ。パンツでわかる素敵な愛情。
マジックの心は熱くなる。感動で満たされていく。心から満たされて指先まで浸透する幸せの色。
「ニャフッ! ニャフッ! ニャフフ――ッ!」
パンツ一枚で押さえつけられたまま怒り狂っているシンタローを他所に、シンタローのパンツによってマジックの脳裏で過去の記憶が刺激される。
パンツ。ああ、面積の少ない、このパンツ。
マジックは震える指を伸ばし、そっとその黒いビキニに手を触れる。ぴちぴちに張り詰めた布の感触が、心地いい。
触っていれば、あんな場面、こんな場面でシンタローを脱がそうと、楽しみにしながら買い物をした思い出が蘇ってきた。
「ああ……」
そんな声が漏れた瞬間、マジックの目から涙が一つ、ぽつりと落ちた。
涙。
どこに落ちたかといえば、シンタローの尻にである。ひきしまった尻の上に。ただし現在は黒いシッポが生えているイレギュラーな、お尻。
「ニャッ?」
これにはびっくりしたのか、シンタローが思わずといった風に振り向いた。そして打って変わった心配そうな瞳で、マジックの様子を窺っている。無理矢理押さえつけていた時は抵抗をやめなかったのに、急に猫は大人しくなってしまった。
「……ンナッ……」
何か自分が悪いことをしたのかという黒い瞳。猫にも、自分が暴れているという自覚はあるらしい。ご主人様を困らせているらしいことも理解しているのだ。了解の上で、気ままに振舞う。それが猫。しかし時には戸惑うこともある。
伏目がちになったシンタローの側で、マジックの口から、溜息のような声が漏れた。
「もっと……」
涙、ああ涙。男の涙は、ダイヤモンドの粉より貴重なのである。マジックの秘石眼からは、また一つ、涙が落ちた。
シンタローは身を奮わせた。長い黒髪を振り、そわそわし始める。
「ンナッ……ナー……」
本格的に『どうしよう』と考え出したらしい。黒猫はぱちぱちと瞬きをする。どうしよう。どうしよう。
どうしよう。自分のせいで、マジックが泣いている。勝手気ままにやりすぎたんだろうか。そんな風に思っている顔。
猫足が戸惑ったように空を切り、本気なのか、そうでないのか。黒猫はぽつりと、なぜかこんな台詞を口にする。
「……カラダガ モクテキナンニャ……」
「は?」
不意を突かれて、マジックが手元のシンタローを見下ろすと、黒い目が自分を見つめていた。しかしその目の表情には、不安が垣間見えているのである。
そういえば、森でもそんなことを言われた気がする、とマジックはやっと思考を回転させて、思う。
ん? なんだ? シンちゃんは、何でそんなことを言っちゃうの?
私が。私がこんなにラブメイクを我慢して、シンちゃんをお風呂にいれようとしているのに!
私の苦労も知らないでっ!
マジックの口から、思わず大声が出た。
「違う!」
シンタローのむき出しの肩が、びくっと波打った。
「違うよ、シンタロー」
「……ンナッ……?」
「私は、お前を綺麗に洗って、早く寝かしつけたいだけなんだ。それをわかってほしい」
隣の浴室からは、湯の流れ落ちる音が聞こえてくる。黒猫の耳先が揺れた。
「ああ……」
またマジックの目から、涙が零れ落ちた。涙は、シンタローの履いている黒いビキニの上に落ちて、弾けて消えた。
マジックの内面では、百花繚乱の回想が咲き乱れている。これは少し前のお話。
――パリのシャンゼリゼを、ミラノのモンテ・ナポレオーネを、ロンドンのボンド・ストリートを、マジックは闊歩したのである。
美しい街路樹と石造りのエレガントな街を、トレンチコートを翻しながら足早に行く。
マジックの顔は、真剣であった。青い目に物憂げな光を湛え、彼は老舗の、または新進気鋭の店のアーティスティクな門をくぐる。店にある物を全部出させて、品定めをする。店員の言葉に首を横に振り、時には天を仰ぐ。
憂鬱を身に纏い、長身で街を行く彼の姿は、非常に人目を引いた。
だが始終、マジックは頭の中ではこんなことを考えている。
うーん、シンちゃんにプレゼントするパンツはどうしよう。パンツ、パンツ。
やっぱり王道はTバックビキニだよねー。色は黒ね。シンちゃんのお尻は綺麗に筋肉ついてるから、似合うよね。
食い込みがポイント。いわゆるバックとサイドが細いヒモだけでできてるGストリング。人類最古の下着は、このヒモパンであったという説もある。なんだか川での漁の時に、ウナギとかがいけない場所に侵入するのを防いだという伝説が、私のうろ覚え辞典に載っている。
あ、それとお尻のところに丸く穴が開いてる仕様の、いわゆるOバックなんてどうかと思って。これはエッチの時に便利だよね! とか言ったら、シンちゃん、怒っちゃうかな。
どうやらシンちゃんは、お手軽なのはイヤらしいんだよね。ちゃんと手順を踏んで、ラブメイキングしたい派かしら。まったくシンちゃんは、夢見るロマンティストだからなあ。
そうだ、これはどうかな。ボディストッキング。全身スケスケのようで、大事なところは薔薇の模様でチラ見せなんだ。
フフフ。でもね、今回はもっと凄いのがあるんだよ。聞いて驚いてください。発表します。
その名もなんと、マジカルビキニ! じゃじゃーん、股間もお前と共に、マジックです。
ビキニの前面に、思いっきりばばーんと私の顔がリアルにお目見え。バックがヒモで、小さなハートが鎖状につながってるんだよ。お尻に食い込んでも痛くないように、ここはさりげなく綿100%の気遣い満点。
いやあ、これはファンクラブで発売計画が持ち上がっていてね。先行してシンちゃんには一番にプレゼントしちゃおうと思ってさ☆ ほら、凝ってるだろう? 私の顔型の両眼には、ブルーサファイアをはめ込んである超高級品さ!
ここは注目してほしいんだけど、工夫した所はね、巷によくあるのは象さんのパンツだけど、それはほら、象さんの鼻の部分に、いわゆる中心部を入れるだろう。なんとこのマジカルビキニは、それが私の舌になっててね、内側から袋状に。こう、履くと私の舌が伸びる構造になっている。ユニークだろう?
エロカワさならぬ、エロダンディさを狙った大人向けの一品さ。シンちゃんの形とサイズを知り尽くしている私が、専門職人に特注させてもらったよ。
さて、シンちゃんはどう反応してくれるだろうか。
ああ、恋人の下着選びは楽しいなあ。シンちゃんのパンツ探しに幾千里。心ウキウキショッピング。
――と、そんなこんなで、マジックはシンタローへのプレゼントを、大変楽しい気分でセレクトした過去があったのであった。
その努力が、今、報われたのだ。シンタローは一番地味なものではあるが、マジックの選んだ下着をつけてくれたのである。こんな幸せは、ない。
なのに、なのに。零れ落ちる涙はどうして。マジックはそっと指先で、自分の目元を拭った。
側からは猫の心細げな声が聞こえている。
「……ニャー……」
「……」
困っているシンタローの前で、マジックは今、激しく心を揺さぶられていた。
ああ、シンちゃん、履いてくれたんだ。あの中では、やっぱり黒ビキニか。シンプルイズベスト。うん、実際似合ってる。プレゼントしてよかった。そんな歓喜の念と同時に、沸き起こる悲しみの念。
しかししかし似合ってるだけに。似合ってるだけに……! ああ――ッ!!!
シンタローのお尻を前にして、マジックは心の底から慟哭した。
「もっとロマンティックがとまらないシチュエーションで、脱がしたかった……!」
「ナッ! ニャニャニャニャニャア――――――――ッ!!!!!」
シンタローの黒髪が全部逆立って、火山爆発。今度こそ怒り沸騰。ニャンニャン腹立ちMAX。
ちょっとでも、この男を心配したのは間違いだったと言わんばかりのシンタロー大激怒である。
ついに猫の右前足に、ぽうっと青い光が宿り、力が篭る。空気が揺れる。輝きが膨らんでいく。眼魔砲が今にも放たれんと即発状態。
しかしそうは問屋がおろさない。シンタローのパンツのヒモを握り締めながら泣いているマジックは、キッと視線を強め、
「そうはいかん!」
「ニャギャッ!」
眼魔砲が炸裂する前に、シンタローの手首をグッと掴み、押さえつけてしまった。
心で泣いて、顔は厳しく。マジックは今、邪念を振り払い、シンタローのパンツ脱がしを冷静に行うことを決意したのであった。
わ、わ、私だって、頑張ってるんだ!
葛藤してるんだ! 本当はエロエロラブラブあんなこといいなできたらいいなアンアンアンとっても大好きシンちゃん状態なのに! 必死に我慢してるのに!
よく状況がわからないままに手を出して、後悔したくないから!
――シンタローを悲しませたくないから……!
なんでそんな時に限って、シンちゃんはエロエロパンツを履いてくれてるんだ――ッ!!!
「うっ、くうっ! 頑張れ、私ッ!!!」
自らを叱咤激励しながら、マジックは叫んだ。
「こーら! 大人しく脱ぎなさい! グズグズしてると、犯しちゃうぞっ!」
「フギャ――――――ッッッ!!!」
パンツを引っ張り下ろそうとするマジックと、なんとしても死守しようと踏ん張るシンタロー。
かくしてシンタローのお尻の上で、黒ビキニの引っ張り合いっこが始まったのである。
「くぅ――! シンちゃんって、ほんっとあきらめが悪すぎるよっ!」
「ンニャ――ニャ! ンニャニャアア!」
パンツを引っ張り下ろそうとするマジックと、引っ張り上げようとするシンタローの攻防である。マジックの手がパンツの縁を掴めば、猫足も負けじと必死に掴む。
「頑張っても結果は同じ! 疲れるだけなんだから、観念しなさい!」
「フ――ッ! フウ――ッ!!!」
シンタローとマジックは、脱衣所の床にごろごろ転がった。手と猫足がもつれる。交差する。激しくパンツを奪い合う。
お尻が揺れる。黒ビキニは浅履きのため、すでに見事に引き締まったシンタローの尻、その上半分が剥き出しの状態なのである。
尻と一緒に、そこからやけに生々しく伸びている黒いシッポも揺れていた。やわらかな毛が、その手触りのなめらかさを誇示している。
お尻。それを申し訳程度に隠す黒ビキニ。ひょこひょこ揺れる黒シッポ。
ぐ、とマジックは思わず息を呑む。
なんともエロチックな光景である。早く食べてください、と言っているようなものである。空腹時に、ごちそうを目の前に差し出されているようなものだ。
ああ、マジック。おお、マジック。誘惑されてしまうとは情けない。神父さんだか牧師さんだかに、天を仰がれてしまいそうな自らの意志の弱さを、マジックは呪った。
しかしここでひるむわけにはいかないマジックなのであった。それほどに今夜の彼の決意は固い。
ぐっ、目の毒!
心にエロダメージを受けながらも、マジックは前進するしかないのだ。愛のために。
何としてもシンタローのパンツは脱がせなければならないのだ。
ただし総帥服のボタンを引きちぎった時のように、パンツを破ったりする訳にはいかない。何しろ記念のパンツなのであるから、しかもちゃんとシンタローが身に着けてくれた品なのであるから、大切にとっておきたい男心。
黒ビキニを奪い合い、もつれあいながら、じれたマジックは叫んだ。
「あのね、パンツ履いたままじゃ、今時は銭湯のお湯にも入れないんだよ! 張り紙してあるから!」
「ニャア――ッ!!!」
「マナーを守ってお風呂に入ろう! そうしよう!」
「ウニャ――ッ!!!」
パンツを奪われまいと必死なシンタローの抵抗は、なかなかに激しいのである。黒ビキニはシルクであるから、力を入れすぎると、すぐに破けてしまいそうで、力任せに引っ張るという訳にも行かない。
しかもピチピチ。シンタローのお尻に合うようにマジックが選びに選んだからであるが、一層破けやすいので、注意が必要なのだ。
こちらが苦戦する材料は揃いすぎるほどに揃っている。
「ああもう!」
「フ――ウッ!!!」
焦りながらも、マジックは溜息をついた。
それにしても不思議な光景だった。セクシーなビキニパンツ一枚のシンタローの外形は、勿論人間である。だがその両手両足には、まるで猫足の手袋をつけ、靴下を履いたというように、ふわふわの黒い猫毛が生えていた。
先刻マジックが考えたように、どうやらシンタローは、身体の先端部分が猫化してしまっているようなのだ。そして長い黒髪からは、同じく黒い猫耳が二つ。
そして前述したように、マジックも誇らしく思うほどに、かたちのいいシンタローの尻からは、にょっきりと長いシッポが生えているのである。ちょうど尾てい骨の辺りからであろうか、お尻の割れ目が終わった辺りから。かなり太いシッポ。長いシッポが伸びている。
シッポよシッポ、お前の気持ちはどうだい? やっぱりパンツは脱ぐべきだと思うだろう?
マジックは、そんな恋人の姿を足先から頭のてっぺんまで、しげしげと眺めてみるのである。
そういえば昔は人間にもシッポがあったという。それが進化の過程で徐々に退化して、今は小さな骨が残るのみなのだそうだ。
先祖返りしたシンタローは、猫になってしまった。マジックは考える。もし私が同じように先祖返りしてしまったら、何になるのだろう。青の玉のことだから、我々の先祖として、何か違うものを最初に作ってそうだな。
うーむ、私が人間じゃなくって他の動物でも、シンちゃんは私のこと、好きになってくれるかな? なってくれるなら、私は別に動物だって何だっていい。昆虫だって植物だっていいよ。無機物だっていい。シンちゃんの好きなものって何だろう。うーん、カレーライスかな?
シンちゃんってば、猫になってもカレーが好きなのかな。なら私はカレーになってもいい。とろりとシンちゃんに味わってもらいたいね。舌先をピリリとくすぐりたいね。ああ、カレーと猫のラブストーリーか。デートってどこでするんだろう。テーブルの上かな?
って! そんなことはどうでもいい! マジックはぶんぶんと頭を振った。
つい想像が飛躍しすぎてしまう性分のマジックなのである。この間0.01秒。
仕方がない。次なる手段は決まっている。現実に戻った彼は、猫に向かって睨みをきかせた。
「よおーし、こうなったら……」
「ニャッ、ニャニャッ!」
ただならぬ雰囲気のマジックに、身構えたシンタローは、しっかりと猫足で黒ビキニを抑え直した。ぴっちりビキニを、がっちりガード。そしてこちらも睨んでくる。
一人と一匹は、無言で相対する。
「……」
「……」
勿論、先に動いたのはマジックの方だった。彼は叫んだ。
「くすぐり作戦だ!」
これほど内容が明確な作戦もないだろう。
「ニャア――ッ!!!」
即座に毛を逆立てるシンタローに向かって、勢いよくマジックは襲い掛かる。
攻撃目標は、脇の下。うなじ。わき腹。猫足の裏。
シンタローが弱い部分は、知り尽くしているマジックだ。彼は長い指を、わさわささせて、くすぐり攻撃を開始した。
「ほーら、こちょこちょこちょこちょっ!」
「フニャッ! ニャニャニャニャフッ! ナフッ!」
突然の方針転換に、身をよじらせるシンタローである。
懸命に黒ビキニをガードしながらであるから、抵抗できない。両の猫足でビキニを抑えたまま、芋虫のようにはいずって逃げようとする黒猫は無力。
マジックの経験上、衣服の上からよりも素肌をくすぐった方が効果が大きい。その場その場に最も適合した作戦を実行するのが、戦術家というものである。
「こちょこちょこちょ!」
「ニャニャニャニャニャアッ!」
俗にくすぐったい場所は性感帯だというが、シンタローは、かなりのくすぐったがり屋だった。マジックが実証しているから間違いない。肌が敏感なのだろうか。
うなじをくすぐられると、もうたまらないらしい。長い黒髪を振り乱して避けようとするが、無駄なこと。
みるみるうちに、黒ビキニを抑えていた猫足から、力が抜けていく。
「ほーら、シンちゃん、こうだ! こっちはどうかな?」
ここぞとばかりにマジックが左脇下をくすぐると、シッポがしおれていく。くねる黒猫の体。
逃げたくても逃げられず、抵抗したくても二本の前足はビキニをガードするため、使えない。せめてもと脚をバタバタさせるが、とても抵抗とは呼べないレベル。
結局は、ぎゅっと目をつむって、我慢するしかないシンタローである。猫耳が震えている。
「ニャッ、ニャフッ、アフッ……」
「ふふ、シンちゃんは辛抱強いなあ……なら、これはどう……」
マジックの攻撃に、シンタローは背をのけぞらせる。わき腹は特に弱い。くすぐるマジックの指にも力がこもる。
「ンアッ……」
なんとなくシンタローの声が妖しくなっていって、マジック自身の言動もいかがわしくなってきて、マジックの頭の奥で、危険を察知するベルが鳴り響いた。
ハッと気付く。いけない。つい夢中になってしまった。前もってマジカル目覚ましかけといてよかった! また脱線するところだった!
手段が目的になっている、いつもの私。ダメ、絶対。これじゃいけない。
今の私の目標は、シンちゃんを快楽に導くことではなく! ちゃんとお風呂に入れること!
そして、あったかくして寝かしつけることであったはず!
くっ、バカバカ、私のバカ――! 頑張るって決めたんだもん! シンちゃんの恋人として、ふさわしい男になるって決めたんだもん!
そのために大切なことは。シンちゃんを欲望だけではなく、本当の愛で包むこと――。
「ぐっ……負けるものか……!」
マジックは真顔になった。ギラリと秘石眼が、再び輝いた。異形の力が、今、愛に向かって放たれる。
青い光が脱衣所に満ちていく。彼は祈った。
天よ! 我に力を与えたまえ! シンちゃんをお風呂に入れる力を与えたまえ!
「はああああ――ッ!」
気合を発しながらマジックは、自らの両手に力を送った。青い光が輝きを増し、どんどんとマジックの手に集まっていく。
空気が振動する。脱衣所が揺れた。いや、広大な家全体が揺れていた。
ゴゴゴゴゴ……と地鳴りが響き渡る中で、マジックは強く念じた。
煩悩退散! 飛んでけエロスな気持ち! アーメンオンアビラウンケンソワカええじゃないかええじゃないか南無阿弥陀仏バイキルトタルカジャマリンカリン石鹸にシンちゃんの名前を刻んで最後まで使うエロイムエッサム我は求め訴えたりチチンプイプイ開けゴマ!
無心論者のマジックといえど、シンタローのためには色んな神様に頼ることもあるのである。
世界がきらめきに満たされた。事物の輪郭は黄金にかたどられ、エメラルドブルーのヴェールを被る。
瞬間、空気が割れた。研ぎ澄まされた気迫が冴え渡る。
神仏さえ恐れかねない秘石眼パワーを宿した腕が、流れるように動いた。青い光の残像を空に描き、その動きは竜のごとし。
ついにマジックは人を超えた。愛が彼にそれを可能にさせたのである。
「おおおおお――ッ!」
古代中国伝説上の神獣、青竜が乗り移ったかのごとく、マジックの指先は咆哮をあげてシンタローのビキニパンツに襲い掛かった。
「ニャッ……ニャアッ……!」
「討ち取ったり、シンタロー!」
弱体化していた猫足から、最後の力が抜ける。爪がシルクの布から、ぽとりと零れ落ちる。
青い影が走った。決着はついた。
黒ビキニの縁を神速で掴んだ青竜は、同じく神速で、シンタローの脚の間からビキニをずりおろし、引き抜いたのであった。
一瞬の出来事である。
まさに神業。この速さは人の業ではない、神のなせる業。無防備となったビキニパンツは、見事に奪われた。
ポーンと弧を描いて、はるか向こうに放り投げられる黒ビキニ。
青い光の中、今や黒猫は全裸のすっぽんぽん。生まれたままの(?)姿である。
「ッ……!」
反射的に身を縮めたシンタローの両肩を、がしっと掴むマジックの手。もとい青竜が乗り移って以下略。辺りが光に包まれて以下略。
ひとたまりもなくシンタローの身体は、軽々と抱え上げられて、浴室に連れて行かれてしまったのだった。
愛って凄い。