総帥猫科
ついにマジックは、眉を寄せて、宣言した。
「もういい、わかった。高松が来たら速攻、眼魔砲で撃ち落す」
最近のマジックは実力行使に及ぶのを控えていたせいか、チョコレートロマンスが、思わずといった調子で、声を上げた。
「うわー、マジック様、残酷」
「だっぺ!」
唱和する津軽少年を前に、マジックは微妙な気持ちになった。
以前は、むしろこの対応が自分の普通であったというのに。それほどまでに今の自分は、身近な部下にまで、穏やかになったように見えるということか。もしくはこの程度の軽口が簡単に叩ける程までに。
マジックは微かに笑った。なんだかおかしかった。
そして、こんな自分も悪くない、と思った。恐れられながら生きることばかりを続けていた男が、表面的にせよ少しでも変われたのなら。
本質的なものは、変わることはなかなかに難しくとも、そう振舞うことで、いつか本当に変わることができるのかもしれない。長い時はかかるかもしれないが。少しでも前に進むことができるのかもしれない。。
マジックは脚を組み直し、わざとしかつめらしい顔をした。部下たちに言う。
「いい。高松なら、どうせ不死身だから」
そう口にしてから、やや説明不足であったかと付け加える。
「あの男は、私の亡き弟ルーザーの攻撃以外では、かすり傷ひとつ負わない不思議パワーを持っている。だから、いいんだ。打たれ強さの点での高松は、ある意味、最強レベル」
実際、青の一族の眼魔砲をはじめとする数多の攻撃には、ビクともしない高松なのである。
案外これが、彼が一般人ながらに、一族の側に長きにわたってあることができる理由であるのかもしれなかった。ヤツは肉体的には超人レベルなのである。そして精神的には、勿論のこと変態レベル。
だからあの南国の事件で、高松がなぜかルーザー(の姿をした人物)の攻撃には、ありえない程に弱いという、決定的な弱点を暴露した時には、一族はそろって自分の目と耳を疑ったものである。
マジックも驚いた。あの高松が死にかけるなんて。トリプル眼魔砲でも鼻血たらすだけで平気なのに、ルーザーの時はボール大の石が飛んできただけで死にかけてるよ。
そこまで回想してから、マジックははたと手を打ち、気がついた。
そうか、じゃあ私は、ルーザーの格好で高松を攻撃すれば、効果てきめんなのだろうか。顔も似てることだし、遠目で見れば騙せるかも。頬の線は、特殊メイクで誤魔化すとして。あっ、若返らなきゃいけないかな?
しまった。高松対策として、秘書たちに前もってコスプレグッズを用意させておくべきだった。白衣と、よくルーザーが好んで着てた、あの何? タートルネックだかそうでないような、首まで生地が伸びてるヤツ。なんていうの、とっくり?
そういえば何であれが好きだったんだろう、ルーザーってば。沢山ある内から、何故に、とっくり? それを選ぶの? 他の服を買う金はあるんだよ、ルーザー?
「その後の情報では、ドクターはオート機能搭載のヘリを利用して、単身こちらに向かっているようです」
故人の服装の趣味を回顧していたマジックは、ティラミスの報告に軽く頷き、また茶を一口含んでから、
「ああ、それは好都合。操縦士がいなくてよかった」
と言った。ヘリを破壊するだけで済む。しかしマジックは、ややあってから、首を捻った。
「……と思ったが、やっぱり破壊したら、ヘリは私が弁償しなければならないんだろうか。あれも高いんだよねえ。ただでさえソニー買わなきゃなんないのに……んもう、グンちゃんめ」
さて。そうと決めたからには、それなりの準備をしなければならないだろう。
だが――ふと、マジックの意識を刺激するものがあった。視界の隅で動く、津軽少年である。
この時のマジックには、いそいそと自分に茶を注いでいる、少年の細い首筋が、やけに寒そうに見えたのである。
雪国出身で寒さに強いと本人も主張し、秘書たちも自分たちの防寒具を分けてやっていたようであるが、傍目には寒々しかった。そのことが、どうしてもマジックは気になりだした。
長時間、彼を自分と一緒にこの寒空に放り出しているのである。特に彼は秘書課ではないし、年齢のこともあるので、やけに気にかかる。深夜勤務だし。そしてコタローに似ているのも……一因であるのかもしれなかった。
しかしである。なんだかちょっと、善人づいてて照れくさい。私はこんな人間だったか。部下に優しくするって、難しい。柄にもなくマジックは、心の中だけではあるが、もじもじした。
言い出すタイミングを計りかねて、マジックは黒髪の少年の姿を横目で追っていたが、やがてゴホンと咳払いをすると、彼に向かって手招きをした。
少年は最初、自分が呼ばれているとは思わなかったようである。ちょうどチョコレートロマンスと何かを話し終えたばかりであった彼は、きょろきょろと周囲を見回し、『わ、だっぺか?』と津軽訛りで驚き、慌てたように駆け寄ってきた。
マジックは表情を動かさず、事務的な調子で言った。
「……これを着てなさい」
そう言ってマジックは、シンタローのコートを少年に向かって差し出した。シンタローがいつも総帥服の上に纏う黒い革コートである。団員たちの憧れの的となっている一品だ。
「そっ、そげなモン、勿体なぐで着れないっぺ!」
慌てて手を振る津軽少年に、マジックは『いい』と目で伝える。だが少年は渋った。健康的な頬を赤くしている。
「だども、シンタロー総帥がお気を悪くしないだっぺか……」
「とにかく着なさい。これは命令だ」
部下に優しくすることに慣れずに、どうしても厳しい調子になってしまうマジックである。だがこう付け加えた。
「……ただ、なるべくシンタローには秘密にするように。機嫌を悪くするどころか、絶対に大喜びして、私が非常に切なくなるから」
怒るどころか。とマジックは溜息をついた。このことを知ったら、シンタローは狂喜乱舞して、絶対にこのコートはクリーニングしないとか、そんなことを言い出すに決まっているのだ。津軽クンの匂いは俺のモノ! とか。そんな感じで。
切ないなあ。
「ありがとうございます……っぺ!」
しゃちほこばった顔をして、おずおずとコートを受け取った津軽少年である。
するとチョコレートロマンスが嬉しそうな顔をして、のこのこと少年に近付いてきた。ぽん、と小さな肩を叩いて、よかったね〜、等と声をかけている。
津軽少年はいいが、なんだかその暢気派秘書の顔つきが気に入らなくて、マジックはまた、『フン』とそっぽを向いた。
少年は袖に腕を通し、コートを羽織る。
黒コートは勿論、少年の腕にも肩幅にも背丈にも合わなくて、だぼだぼだ。裾を引きずるのが申し訳ないのか、裾を両手で持っている。
そしてピュアな感謝の瞳で、マジックを見つめてきた。
いたたまれなくなったマジックである。また、何かしてやらなければいけないような気がする。善行の連鎖反応というやつか。少年と、その背後でコートの襟を整えてやっているチョコレートロマンスに向かって、マジックは手元の皿を押しやった。言った。
「私はもういいから、お前たちが食べなさい」
皿には、先刻の軽食が、ほとんど手付かずのままで残っていた。
「わーい
だっぺ!」
「ちょうどお腹空いてたんですよー」
「他にも入手してきた食料があるんだろう。私はもう今夜は食欲がないから、全員で処分するように。それから休憩でも何でも勝手にとりなさい。後で使い物にならなくなっては困るからな」
ぶっきら棒なマジックの声にも関らず、嬉しげな表情をする二人である。
さあみんな、休憩タイムだ、と仲間に伝えるために、二人は一緒に駆け出していった。すっかり仲良しさんである。
「……」
やれやれだ。マジックは静かに席を立った。この場を離れようとする。
するとすかさず、ティラミスがこう聞いてきた。
「マジック様。次に考え込まれるのは、穴底と地上、どちらでなさいますか」
「……地上」
常に居所を身の回りの者に知らせておかなければならないのは、責任ある人間の定めである。
溜息をつきながら、歩き出す。
頭上に登りつめた満月は煌々と輝き、森の草木を美しく描く。その中を、マジックは一人歩く。
冷たい湿り気を含んだ風が吹く方へと足を向ければ、森が開けて川面が視界に入る。
深い藍色をたたえて、川が流れていた。水音は清い。
川沿いには先刻見た通りに店が並んでおり、時間が経っているためか、そのいくつかは灯が消えていた。
だがますます盛んに照明を使い、露天のビアホールか何かなのだろうか、沢山の人影が集まっている店もあるようだ。
あれがティラミスの言った店なのだろうか、とマジックはぼんやりと思いを馳せる。すでに夜は更けているものの、週末であったから、夜通し騒ぎたいと考える者も多いのだろう。賑やかな雰囲気は、この場所にまで伝わってきていた。
川面に明るい光が落ちていた。流れにたゆたい、色んな模様が映っては消える。
マジックは、川辺にある石段に腰掛けた。
やってくる高松を撃ち落すには、ここが一番都合がいいだろう。視角も広かったし、方角的にも良かった。彼は夜空に目を向ける。この視線の直線上に、本部がある。
マジックは手を胸の前で組み、しばし待つ。
だが待ってみても、星が瞬くばかりでヘリの影が見える気配はない。
目の端で、暗闇に沈む山の稜線の一つが、ほそい絵筆の先で描いたような淡い線を滲ませている。長く見つめていれば、押し寄せる寂しさにぞっとした。無意識に首筋をすくめながらもマジックは、視線は空に向けたまま、思索に埋もれていく。
彼が川辺に一人座るなんて、滅多にないことだった。何年ぶり、ではきかないかもしれない。もしかすると子供の頃以来であろうか。
13の歳で総帥になる前は、弟たちの世話に疲れると、こんな風に川原に降りて水面を眺めていたっけ、と彼はぼんやりと記憶を手繰り寄せる。生家の側には美しい川が流れていて、彼ら四兄弟はよくそこに遊んだ。
幸せの記憶。
「……」
ルーザーのことを思い出したからであろうか、マジックはやけに感傷的な気分になっていた。
シンタローの身をなかなか確保することができない、その寂しさも大きな要因である。穴底で浸っていた憂鬱気分は、彼の胸のうちで、切なさへと再び変化を遂げていた。
彼は息を抜くように、そっと呟く。
「シンタロー。早く会いたいよ」
マジックは視線を落とし、川辺に咲く野の花を見た。コンクリートの狭間の湿った土から、カラミンタがひょろっと伸びて、小さく白い花をいくつもつけていた。
彼はしばし眺め、そっと指で、やわい花びらに触れてみたりする。花に話しかけるように、また呟いた。
「そしてずっと、私と一緒にいてくれないかなあ」
花びらから指を滑らせ、長い茎の根元に落ちていた、小石を拾って、川に向かって投げる。
小石はぱしゃんと飛沫を上げて水面に落ち、波紋を広げて消えた。沈んで消えてしまった、その何でもないことが、今はとても寂しいことのように思えてならないマジックであった。
その方がシンタローも喜ぶだろうと思ったから、少々微妙な嫉妬にかられながらも、彼の革コートを津軽少年に着せてやったのだが、早くシンタローをあったかくして、連れ帰らねばという気持ちに変わりはない。
確保したシンタローの身体を、車か何かに連れ込めば、外気に晒される心配はない訳である。そしてすぐ家に帰ればいいのだ。だがそうする手段を考えねばならないのだった。
一体どうやって?
あの満月に浮かされて、遊びまわっている黒猫を?
失敗続きで、マジックは彼らしくもなく、いささか気弱になっていた。シンタローに関することでは、いくらでも気弱になることのできる男である。
もう金でも美少年でも猫じゃらしでも、シンタローをおびき寄せることはできないだろう。
危険人物・マッドサイエンティスト高松が近付いていることを考え合わせれば、高松よりも早くシンタローの居場所を突き止めるか、おびき寄せるかしないといけないはずであったが、何があの黒猫の興味をひくのかがわからない。
三度目の正直というが、すでに三回もシンタローをあと一歩というところで逃してしまっているマジックには、使い果たしたカードばかりで、後にはもう何も残されてはいないように思えるのである。
彼はこめかみに長い指をつき、憂いの色を顔に浮かべた。
シンタローの大好きなものって、あと何があっただろうか。彼は考える。
カレー? でもまた材料集めの段階から始めるとすると、時間がかかるからなあ……。食材の類は、ほぼ駄目にされているし……。
マジックは息をついた。吐く息は、水面を渡る冷たい風によって、溶けていくのだ。
落としていた視線を上げ、彼は再び夜空を見る。やはり星の狭間には何の異変もなく、何者もやってくる様子はなかった。
川下の、例の露天の酒場らしき場所からは、風の流れによって賑やかな声が大きくなったり小さくなったりしながら、がやがやと人の声が聞こえてくる。しかしこの寒いのに露天とは、なんともはや。元気な人たちだ。
少し騒がしすぎるようにも思えたが、マジックは気にしなかった。悲嘆にくれる青い目をして、自らの煩悶に没頭していたからだ。
やがて彼は、数度首を振り、小さく呟いた。
「やっぱりさ。エロスに純愛が勝利するべきなんだよね」
背後から足音が聞こえた。
マジックが振り向くと、ティラミスが小型モニターを手に敬礼している。抑揚はないが聞き取りやすい声が、静かに響いた。
「ドクター高松が、本部へと帰って行くようです」
「なにッ!」
マジックは眉をひそめたが、差し出されたモニターからは、高松の現在位置を示す光点がちかちかと点滅を重ねながら、たしかに本部へと戻っていく様子が見て取れた。
ティラミスによれば、光点はいきなりUターンして、引返してしまったのだという。
「……これは」
何かがおかしい。先程のグンマやキンタローのように、こちらからは何も仕掛けていないのに。都合が良すぎる。マジックは首をひねった。
そして数秒の思考の後に、彼はこう結論付けた。
「おそらくは偽装だろう」
高松本人はUターン地点もしくはそれ以前にヘリを降り、発信機代わりになっている携帯をヘリに乗せたまま、本部へと引き返させたのだろう。
こちら側が警戒しているであろうことを予想し、ヘリを囮とした。そして当の本人は別の移動手段を使い、マジックの裏をかいて、シンタローを捕まえるつもりだ。
高松の性格を考慮に入れれば、そうとしか考えられない。
「くっ、姑息な医者め」
相手が姑息だとすれば、ヘリを撃ち落そうとしていた自分は乱暴者なのであるが、マジックはそんなことは意に介さずに、深い溜息をついた。
なんてことだろう、今夜は溜息ばかりが、口をついて出る。
「まあ、どんな移動手段で来ようと、撃てばいいんだ」
物騒な結論を呟くと、マジックは気を取り直して、秘書に伝えた。面倒なことになったが、計画を軌道修正すればいい。
「お前たちは警戒を、森の中ではなく外に向けること。シンタローは森にいる。高松を発見したら、すぐに私に知らせること。奴がシンタローに出会う前に」
「はっ!」
ティラミスは敬礼した。だがすぐに休憩中の仲間たちに、マジックの命令を伝えに身を翻すかと思いきや、彼はそうしなかった。直立した体勢のままでいる。
怪訝な顔をする上司に、秘書は口を開いた。
「とすれば、マジック様には、ドクター到着までの待機時間が発生する訳ですね」
相手の意図が判別できないまま、マジックは頷いた。
「まあ、そうだが」
高松がヘリを降りた以上、徒歩で来るにしろ車等を使うにしろ、速度は鈍るはずである。時間の余裕ができることになる。
「私たち秘書課の人間も、森ではなく外に待機することになります」
「ああ」
「でしたら」
ティラミスは、にこりともせずに言った。
「今からマジック様に、突発のお仕事を一つ、入れてもよろしいでしょうか」
「なんだとッ!」
意外な発言に、マジックは呆気にとられ、そしてすぐに胸に怒りが込み上げてくるのを感じた。
この緊急事態に、私に仕事をせよとはどういうことか。けしからん。
上司の剣幕にも動じず、ティラミスは懐から電子手帳を取り出し、軽快に指を動かし何かを確認している。
マジックのスケジュール管理その他一切は、秘書たちに任せていたから、この手帳に彼の運命が詰まっているといっても過言ではない。
淡々とした秘書を前に、マジックは鋭利な顔の輪郭を震わせた。
仕事? 仕事だって?
「なんだってそんなこと、しなきゃならないんだ!」
マジックは声を荒げた。
今夜はシンちゃんとデートだから、何もスケジュールは入れないようにって、ちゃんと言ってあったのに! オフなの! オフのはずなのに!
シンちゃんが遠征中は、毎日仕事したじゃないか! お前たちの言うこと聞いて、文句も言わずちゃんと仕事したじゃないかっ!
この鬼! 悪魔!
ああもう、『デート! 入れるな、危険』って、秘書室の壁に貼ってあるスケジュール表に、太いマジック(おっと、私のアレのことじゃないゾ
)で大書しておいたのに!
『遠征から帰ってきたシンちゃんと、愛を確かめ合う時間
』って書き込んで、確保しておいたのに!
彼はこの余暇を手に入れるために、自分がなした苦労を思い、憤慨した。
余談ではあるが、マジックがいちいち『シンちゃんとビデオ見る時間』『シンちゃんとご飯食べに行く時間』『シンちゃんとラブラブする時間』等と、自分の予測的希望を、この秘書課のスケジュール表に、堂々と書き入れるため、その上から赤ペンで『ダメ』『その時間は無理』『バカヤロー!』等と修正が、新総帥の筆跡で入っていることも多いのである。
スケジュール調整をする秘書たちによる訂正よりも、多いくらいだ。
時には、『シンちゃんとお風呂』→『帰れねェ』→『じゃあ待ってる』→『待ってなくていいって』→『私は待ちたいんだよ』→『しょうがねえなー。ったく』等と、黒マジックと赤ペンで、交互に上書きされて、もう本人たち以外には何がなんだかわからなくなっていることも、ままあるのである。
衆人環視の交換日記が、秘書課の壁では繰り広げられているのであった。
マジックにしてみれば、熱心な秘書たちが所狭しと仕事を入れ、時には夜間にまでそれが及ぶので、それを防ぐためには自己の主張を激しくする他ないと考えているから、致し方ないという気持ちである。
一頃と比べれば自分には多少の時間的余裕はできたものの、なにしろ互いに激務の身、恋人たちがラブラブするにも秘書たちのスケジュール調整を仰がねばならぬとは、なんたる不幸であろうか。よく彼は、そう我が身の悲嘆をかこつのであったが――。
脱線が過ぎた。ともかくも、である。
仕事と聞いて、マジックはムッとし、露骨に不快だという表情をした。仕事。この期に及んで仕事。
ああ。間が悪いのはチョコレートロマンスの特権ではなかったのか。ティラミスまで。
マジックは恨めしげに、目の前でビシッと背筋を伸ばして直立している部下の顔を眺めた。長い付き合いなのだから、私の気持ちがわからないでもあるまいに。たとえ空いた時間があろうが、仕事なんてしてる気分じゃないんだよ。
それとも、わかった上での、この仕打ちか?
「仕事をお入れして、マジック様にこなしていただくことが、我々の職務ですから」
臆せずに視線を合わせてきたティラミスは、こう言い放つ。彼は自らの職務に忠実なだけであるというのだ。
あまりにも正論であるので、マジックは目からビームで、相手をアフロにするのも躊躇われた。
これも余談ではあるが、総帥引退後のマジックは、実力行使をするのを控えており、彼なりに穏便な方法で部下と付き合うようにしているのである。腹が立っても、決して殴ったりはしない。
もう悪いことはなるべくしないって、シンちゃんとの約束だから。なるべく。
ただ、アフロ。飽きたらパーマ。秘石眼のコントロールに長けたマジックは、目から放つ熱線で、部下の髪型を変えることに気晴らしを見出したのである。
最近では縮毛矯正までできるようになってしまった。軽い気持ちで、何の気なしに始めたことなのに、恐ろしい勢いでマジックはその道に習熟してしまったのである。
何でも上手にできてしまう男、恐るべし。
ちなみに髪だけではなく、まつげパーマ等も可能である。まさに歩く人間美容室。その必要もないのに、無駄に生活費を稼ぐ術は身につけている彼である。
マジックは考える。何年も経って、もしシンちゃんが総帥を引退したら、二人で美容室をやるのもいいなあ。そしたら私は髪結いの亭主だよね。
ああいいなあ、誰も私たちのことを知らない小さな街の小さな店で、二人でひっそりと慎ましやかに暮らすのさ。庶民的生活。二人で買い物に出かけ、海際を散歩する。そしてキス。ずっとキス。ああいい。それはいい。そんな生活、夢が広がる。
ちょっと考えただけでも、目からのビームで仕事をする美容師など、慎ましやかに暮らせるはずもないのではあるが、とにかくマジックはそんな空想に浸っている自分に気付き、いけない、いけない、と目の前の現実に戻った。
未来のことよりも、とりあえずは迫り来る現実のことである。自分の現実。マジックは、シンタロー捜索の緊急事態に陥っているにも関らず、血も涙もない冷酷な秘書によって、仕事をさせられそうになっているのである。大ピンチなのである。
これはね! 誰から見ても、酷いよね!
いい悪いの基準が微妙だって、よくシンちゃんに言われちゃう私だけどさー、これは絶対、シンちゃんでもヒドいって言ってくれるよね! 秘書より私の方が正しいよね! ティラミスの方が悪いもんね! ね、ね、ねー!
「……」
自分が正しいという確信を得て、マジックはゆっくりと不機嫌に腕を組んだ。ティラミスを暗い視線でねめつける。
考えてみれば、自分の仕事が総帥業から元総帥業(というのだろうか?)へと変わったことによって、インセンティブ制をとる秘書たちの給与も、よりマジック自身の出来高による部分が大きくなったのである。
だから秘書たちは、私にやたら仕事を入れたがるのか? 給料のために私を働かせるのか? と、マジックは、自分を馬車馬のように働かせる彼らを、すでに疑ったこともある。
しかしよくよく観察してみた結果、秘書たち、特にティラミスやチョコレートロマンスは、どうやら新たに手を染めたプロデュース業にハマっているだけらしかった。
なんだか、楽しいらしい。いつの間にか、どこぞの芸能事務所も真っ青の手腕振りである。
彼らのマジック・プロデュースにかける意気込みといったら、なにしろイベントで自らノリノリで司会までしてしまう有様なのであるが、再々度脱線しそうになるのでそれは別の稿としておこう。
通常人なら吹き飛んでしまうほどのマジックの不機嫌な視線にも、目の前の有能秘書は、一向にこたえた様子もなく平然としている。そしてこう言った。
「待機時間を利用して、臨時サイン会を行ってはどうでしょうか」
「なに、サイン会だとっ!」
突然に何を言い出すのかと、マジックは秘書の正気を疑った。第一、サイン会にはファンが必要ではないか。ファンあってのサイン会なのだ。何の事前告知もなしに、しかもこんな森でできるはずがなかろうに。
しごく当然の疑問をマジックが口にすると、秘書は事情を説明し始めた。
「さきほど食料調達のために、あちらの店を訪問したとお伝えしましたが」
あちら、とティラミスが手の先で示したのは、例の川沿いにある、明かりを煌々と照らして、賑やかにやっている露天の酒場のことである。
あの店で行われていたのは、なんとマジックファンクラブ会員のオフ会であったのだという。
「……ッ!」
マジックは愕然とした。
そんな偶然があってたまるものかと思ったが、一面では納得もしたのである。たしかに、この寒空で騒ぐことができるのは、分厚い筋肉に包まれた我が精鋭たちであろうと。聞こえてきた騒ぎ声が、いやに野太かった気がする。
よくぞ来た! 我が精鋭たちよ! どこにでもいてくれるのは嬉しいけれど。
……あっ、そうだ、ファンクラブのみんなで、シンタロー確保を手伝ってくれないものか。ここはもう物量作戦でいくしか。風雲マジック城作戦発動。
マジックが別の空想に陥りそうになっている間に、相も変わらず冷静に話を進めるティラミスである。
「店に入った私の顔を、見知った者がいたようで」
なにしろ先述したように秘書たちも壇上で司会などをしているから、ファンたちの間では、顔が知れ渡っているのである。
ティラミスとチョコレートロマンスの二人は特に、さりげなくファンクラブ会員番号の1番と2番でもあるから、コアなファンの間では彼らを知らない者はいないと言ってよかった。
そこで、酒場で一騒ぎあった。この場所にマジックがいるに違いないと騒ぐ猛者共を、なんとかティラミスは押しとどめ、適当に言いくるめて戻ってきたのではあるが、なにぶん至近距離であるがゆえに、マジックの存在が発覚するのも時間の問題ではないかと、彼は告げた。
ティラミスの嘘を信じず、森にまで後をつけてくるファンもいたそうである。
マジックは夜の中でまるで灯台のように輝いている川縁の店を、見遣った。
そういえばやけに煩かった気がしていたのである。彼の視線の中では、人だかりが蠢いていた。飲み騒いでいた人々は、いまや一塊になってこちらを見ていた。マジックが顔を向けた瞬間、黄色い声からは少なくとも二オクターブ下の歓声があがった。手を振っている人間もいる。
「あ」
「見つかってますね」
ちかちかと反射するような光が見えるのは、双眼鏡だろうか。明らかにファンたちに見つかってしまっている。
マジックは試しに、小さく手を振り返してみた。するとどよめきが起こり、酒場の人間が総立ちになって、応えるように手を振り出したのである。
「……」
「幸いにもグッズ等は、マジック様のご命令がなくとも常に一定量を準備しておりますから、販売の点はご心配なさりませんように」
「いや、そういうことじゃなくて!」
マジックは手を下ろし、口をへの字に曲げた。
なんだか仕事を入れるために、わざとティラミスが自分をファンたちに見つかるように仕向けている気がしてきたのである。被害妄想であろうか。
こと営業や商品販売に関しては、秘書たちの手並みは自分が口を出すことはない。しかし、しかしなのである。
「ファンは大切にしなければいけない。勿論、私はファンを愛しているよ」
マジックは沈んだまなざしを、川の水面に送った。呟く。
「だが今夜の私は、愛想笑いもできない程にブルーなんだ。憂鬱で仕方がない」
「苦悩に萌える種族もいます」
ティラミスはきっぱりと言い切った。
「しかし、この頬の傷。こんな傷だらけの顔では、ファンに会えない」
なおも抵抗を試みて、マジックは自分の頬を指で押さえた。その場所に、さんざんシンタローにひっかかれた傷ができているのである。これではダンディかたなしなのではないだろうか。
有能秘書は、さらに言い切った。
「悪の匂いに萌える種族もいます」
ぐっ! マジックは唇を噛んだ。
とうとう私も、清純派ダンディから傷だらけの悪役ダンディに転向か。いや悪役ってのは、前からそんなようなものなんだけれど……いやそれにしても!
マジックはなおも言い募った。こうなれば意地である。彼は自分の金髪を指差して、秘書に示した。
「しかもシンタローに頭上着地されたから、髪が乱れている! 泥だってついてるかも! これをどう萌えにつなげるんだ! 解釈してみろ!」
「それをワイルドと認識して萌える種族もいます」
どどん! と言い切った秘書は強かった。
マジックは敗れ去った。
「はは、はははは!」
彼は大声で笑ってみた。もうやぶれかぶれである。
ついにマジックは降伏した。切なげに川面に向かって、叫んだのであった。
「ええい、もう勝手にしろ――!!!」
かくしてマジックは世界中の絶望を一まとめにしたような表情で、川沿いの大木の側で腕を組み、立ち尽くしながら、部下たちの作業の様子を見守ることになるのである。
一連の作業、つまりサイン会のセッティングは秘書たちにとっては慣れたもので、あっという間にそれなりにゴージャスでそれなりに品位のある会場が、こんな場所にも姿を現しつつあるのが、凄いといえば凄いのであった。壮観と言ってもよい。
器材を持って、慌しく駆け回る秘書たちを前に、マジックは心の底で涙にくれていた。
深刻な面持ちを浮かべた顔で、憂鬱の海にたゆたっている。星のきらめく夜空に向かって、耽美の色を含んだ吐息を沈ませた。彼は無言で愛しい者へと語りかける。
シンタロー、ちょっと待っててね。
高松をなんとかしてから、お前を迎えに行くよ。でも何でだか、その前に仕事しなきゃいけないみたいだけど、くすんくすん。
でもファンは大事にしなきゃいけないし、秘書は働けってウルサいし、ソニー買わなきゃなんないからお金はいるしで、パパね、パパね、辛いとこなんだ。私一人の体じゃないんだ。男はつらいよ。パパはつらいよ。
「……ああ」
マジックは嘆く。幾度くりかえしたかもわからない問いを、身の内で繰り返す。
一体どうやったらシンタローの身を確保できるのだろうか。
とりあえず、シンタローの弱点は、首筋とシッポの付け根だということがわかっている。
もし接近することができたとして。ほら、にゃんこのお引越し、みたいに。シンタローを、その二箇所で持ち上げて、車か何かに連れ込めばいいのだろうか。
うーん、でもなあ。あんまりそこばっかりを刺激すると、怒りMAXで反撃されるってこともわかったからなあ……。猫爪で、バリバリひっかかれるんだよね。
それに何度も触りすぎてて、シンタローの方も警戒しているだろうし。ああ、マジカル小指。いやはや、困ったものだ。
あの時、お尻触らなければよかった。そうしたら今頃は、シンちゃんと一緒にあったかい部屋で、めでたしめでたしだったのに……いやしかし私は、タイムマシンであの時に戻ったとしても、再びお尻を触ってしまうという自信がある。
うーん、もっと何か別の方法がないだろうか……。
うーん、うーん。
思い悩めば、思考は高松にも及んでいくのだ。
そう、高松だ。あいつのせいで、時間をロスしてるんだよ、それに事態がややこしくなったんだ。まったくけしからん、マッドサイエンティストめ。知識を提供してくれるのはいいのだが、すぐに行き過ぎる。
薬も過ぎれば毒となるというが、あいつは毒になるのが早すぎるんだよね。
そこまで考えて、マジックは、はたと重要な問題に思い至るのであった。
いやでも待て、仮にシンタローが高松に捕まったとしたら、何をされるのだろう。研究って。実験って、何をするのだろうか?
「……」
待て。マジック、落ち着け。でも。でもでもでも、高松だから!
この辺り、マジックと高松は互いに相手を途方もない変態だと認識しあっていたから、容赦がない。
「……くっ!」
シンタローを裸にして天井から吊ったり、肌に色んな器具をつけたり、冷たい聴診器をあてて……。
「……ぐうっ!」
ちょっ、ちょっと待て! あああああれか! 反応見たりするのかッ! ちょっと尖った金属とかで、つついたりしちゃったら、ぐったりしたシンちゃんがピクン! って反応しちゃったりするのくわぁっ! まさかおいコラ高松ッ! お前なんてことをををををッ!!!
この変態医者! その役目、代われ! 私がやる! ……いやいや、そういうことじゃなくて!
いや、いかん! 断じて高松にそんなことを許す訳にはいかん!
うらやまし……いや、誰がやっても、そんなのはダメ――!!!
「いか――んっ!」
ぜい、ぜい……。
荒く息をついて大声を出した後で、いけないいけないと気持ちを落ち着かせたマジックは、しかしまた、こうも思うのである。
いいか、マジック! お前の役目は、そんなけしからん事態(by マジックの妄想)から、シンタローを救い出すことにあるのだよ! それを忘れるな!
それにさ、役得があるかもしれないじゃないか。希望を捨てるな。ネバー・ギブ・アップ!
もしかしたらシンちゃんたらさ、私がこんなシンちゃんの危機を救うからには、私の首にぎゅっと抱きついてきて、『パパ、大好きニャ、お医者さんゴッコしようニャ!』とか言ってくれないとも限らない。いや、限るか。限らない。限る。限らない。限る、ああ無限連鎖の花占い的苦悩!
しかし万が一にもそう言いだされたら、私は紳士的にこう言うね。
『何を言うんだい、シンタロー。お医者さんゴッコなんて。ははは、お前は熱があるじゃないか。まずあったかくして、ベッドでお眠り』
『嫌ニャ、どうしてもヤるニャ!』
どうしてもお医者さんゴッコに拘るシンタローに、私は困ったように眉をひそめて、優しくキスをするのさ。
『いけない子猫ちゃんだね。よし、わかった。じゃあ一緒にベッドに入って、ベッドの中で、楽しくお医者さんゴッコをするとしよう。ふふ、わがままな子だ』
そして私たちは、お医者さんゴッコをするのさ。なんて薔薇色の未来幸せ絵図!
ああ、お医者さんゴッコしたい! お医者さんゴッコしようよ、シンタロー!
ゴツン。
激しい衝撃音がして、目の前に火花が散った。側の大木に思わず抱きつき、勢いよく頭をぶつけている自分に気付いたマジックである。勿論、顔は耽美かつ深刻な表情のままであった。
ふと周囲を見回すと、秘書たちが心配そうな目で、こちらを見ていた。視線を意識しながらマジックは、何でもない風を装ってハンカチを懐から出し、額をぬぐった。
ちょっと痛かった。ヒリヒリする。今日の私は、傷だらけのダンディさ。
現実に戻り、マジックはがっくりと肩を落とした。俯き、腕を大木にもたせかけて体重を支える。
……ダメだ。どうして私はこうなんだ。
純愛がエロスに勝利すべきなんだって、ついさっき考えたばかりじゃないか。
猫のシンタローに不純なことをしてしまえば、後で本物のシンタローが泣くよ。
ああ。私。なんて欲望に流されやすいのだ、私。シンタローへの愛に生きるんだ。だがそれがなんと難しいことか。
今こそマジックは、悟ったのである。
まさか私は、試練を受けているのか? 飢えと欲望の果てから、純愛にこんにちは。
おお、神よ! 私は最後まで、欲望に負けないでいられるでしょうか?